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お抱えシェフと打ち合わせ

プライス家の人々, 第2巻

ジェーン・コノリーは詐欺師に騙され、窮地に立たされていた。住む家も働く場所もないのに、借金だけが手元に残っている。一刻も早く仕事を見つけ、安全に暮らせる家を探さなければと焦る彼女だったが、職探しは思うに任せない。
そんなときに差し延べられた見知らぬ男からの救いの手。その手にすがるより他に、ジェーンには選択肢がなかった。

大富豪のイアン・プライスは、以前、格闘技の世界に身を置いていた。そのとき犯した過ちを悔い、二度と自制心を失うまいと心に誓った。自らをコントロールするには人と距離を置くのが一番だと思い定め、必要以上に誰かと打ち解けようという気持ちを持たなくなってしまった。
ある日、車で偶然通りがかった裏町で、一人立ち尽くしている女性に遭遇した。大都会ワシントンの片隅で途方に暮れたようなその女性を、イアンはなぜか放っておけない。
豊かな感受性を持つひたむきな彼女と接するうち、彼が十三年間守り続けてきたシンプルな生活が徐々に脅かされていく。

第一章試し読み

プロローグ

十三年前——、
 
人が酒を飲む理由は主に二つ。一つは単純に気持ちよく酔うため。もう一つは何かを忘れたいとき。嫌なことや辛いことから逃れようと、酒を浴びるほど飲むという人は多い。
イアン・プライスもそんな一人で、むしゃくしゃしていたその夜は、折りしも彼の二十歳(はたち)の誕生日だった。

くそ。実家へなんか顔を出すんじゃなかった。

イアンはもともとあの家にいるのが好きではない。母と顔を合わせなければならないからだ。高価な誕生日プレゼントは贖罪のつもりなのか、あるいはそれによって我が子を手なずけようとしているのか、どちらにしても母独特の策略のような気がして不快だ。
家に帰る代わりに友人たちとドンチャン騒ぎでもすればよいのだが、怪我を負った自分の痛々しい姿を母親に見せつけたいという誘惑には勝てなかった。
イアンの母ケインリスは、富と権力を象徴するプライス一族に溶け込もうと、結婚当初から四苦八苦してきたらしい。自分の産んだ子供たちにも、常に家名に恥じぬ生き方を強要してきた。
従って、イアンが大学を勝手に中退し、文字通り檻の中で死闘を繰り広げるケージ・ファイターの道を選んだときには、これまでにないほど狼狽した。父方の祖母であるシャーリー・プライスに、
 ——あなたの教育が悪いから、あの子は野蛮なスポーツに興味を持ったのよ。檻の中で殺し合いするだなんて。
そうなじられたのも相当こたえたらしい。

その日はちょうど大きな試合のあとで、イアンの身体は傷だらけだった。
半分しか開かない目や腫れた鼻、無数の切り傷に擦り傷、内出血の跡などを見せながら試合の模様を事細かに話してやれば、母はきっと恐れおののくに違いない。その蒼ざめた顔を見てスカッとしたいというひねくれた〝お楽しみ〟をどうしても味わいたかった。
そう、彼は許せなかったのだ。母が父を裏切っていることを。そのせいで家族がバラバラになりかけていることを。
 両親の部屋の前を通りかかると、珍しく父も在宅しているらしく、お決まりの夫婦喧嘩が漏れ聞こえた。
「いつもお出かけなんですね」
 切り口上の母の言葉に続き、忙しいんだよ、と父の冷たい声。
「ジョージアみたいな片田舎で、いったいどんなビジネスができると言うんです?」
「ジョージアに限らず、ビジネスチャンスならどこにでも転がっている。もういい加減わかってくれているのではないのかね。それに、婚前契約書の件を忘れてはいけないよ。私がどこで何をしようがきみに口出しする権利はない。金ならこれまで通り好きなだけ使えばいい。婚姻関係が続いている限りは、という意味だがな」
耳をふさぎたくなったイアンは家を飛び出し、今こうして一人酒場で飲んでいる。酒は一時の気晴らしには打ってつけだが、どんなに飲んでも酔えない日もあるものだ。
「なあ、ありゃあプライスんとこのガキじゃねえのか」
奥のほうのテーブル席から聞こえよがしの声がした。
「あそこに突っ込ませてくれる女の息子かよ」
イアンは拳をギュッと握った。
自分はプロの挌闘家だ。こんなところで暴力沙汰を起こしては試合に出られなくなる。
ブー、ブー。
ポケットの中で携帯が振動した。確認してみると、弟からのメールだった。
〈兄さん、今どこ? 今日は誕生日だろ。一緒にお祝いするんじゃないの?〉
そんな気分ではないし、年齢を誤魔化してこんなところで飲んでいるのを弟に知られたくもなかった。
イアンはウォッカをグイッと飲み干した。焼けるような感覚が喉から食道へゆっくりと下りていく。
バーテンダーが前に立ったので、彼は「もう一杯」と言ってグラスを差し出した。
腕にガイコツのタトゥーを入れたバーテンダーは、新たなグラスに酒を満たして彼の前に置き、空のグラスを下げて立ち去った。
「スゲエんだって? 毎日あそこに塩水かけてるそうじゃないか。そうすりゃいつも新鮮な牡蠣(かき)が味わえるもんな。ヒー、ヒヒ」
男たちは下卑た声で笑い合い、ビールのジョッキがテーブルの上で派手な音を立てた。
客層も最悪だし酒もマズい。どうしてこんな店に入ったんだろう。わざわざ家から遠いところを選んでこのザマだ。
客のほとんどが屈強そうな男たちで、みな安物のTシャツとジーンズを身につけている。そんな中にあって、カスタムメイドのシャツとイタリア製スラックス姿のイアンの存在は、最初から浮いていた。
「よう、ぼうや!」
さきほどのろれつの怪しい男が後ろで叫んだ。「かあちゃんは一緒じゃないんだ?」
相手は三人連れ。イアンは無視を決め込むことにした。三対一でも勝機はじゅうぶんだが、酔っ払い相手に喧嘩して将来を棒に振るのも馬鹿馬鹿しい。取り合わないでいれば、そのうち彼らも諦めてよそへ行ってくれるだろう。
リーダーらしき男が口を開いた。
「そこのガリガリくん。おまえのかあちゃんは俺ら大工の〝希望の星〟だって知ってたか」
「大工」という言葉を耳にした瞬間、イアンの記憶は四年前のある日に遡った。当時、図書室の棚を増設していた大工が母と裸で抱き合っているのを見たのである。二人が何をしていたのかは一目瞭然で、そのとき聞いたあえぎ声は今も耳に残っている。
イアンの喉元に苦いものが込み上げた。
「デカい釘を打ち付けてやったら、相当ヒイヒイ言ったらしいぜ」
三人目の男が品のない声で言い、周りの男たちからもドッと笑い声が起きる。
「口でヤルのもうまいんだってな。全員一度はイカされたらしい」
くそ。ここまで馬鹿にされて黙ってられるか。
イアンはすっと立ち上がり、くだんの男たちの許へすたすたと歩み寄った。はらわたが煮えくり返っている。
「もっとはっきり言ってやろうか。おまえのママは誰とでも寝る、とんでもない尻軽女なんだぜ」
リーダー格の男がそう付け加えると、店の男たち全員が大声でゲラゲラ笑い始めた。
四年間心に閉じ込めてきた怒りがものすごい勢いで吹き出てきて、気がつけば三人のうち二人を蹴り上げていた。二人ともその場に沈み、残る一人が腰を浮かせかけたところに空のジョッキを振り下ろすと、そいつもあっけなく倒れ込んだ。
ここで終わりにすればよかったのだが、イアンの怒りは収まらない。まるで自動操縦にでも切り替わったかのように、倒れている男たちを引きずり上げてパンチを与え、蹴り上げ、血だらけになった顔面にジョッキを押し付けた。
そのとき後ろから強い力が加わり、次の瞬間羽交い絞めにされていた。プロの挌闘家としてこんな技を外すことぐらい本来ならばわけないのだが、次々と手が伸びてきて押さえつけられては、さすがのイアンもお手上げだった。
もがいているうち、誰が呼んだか警察がなだれ込んできた。

* * *

留置場にぶち込まれる直前にかろうじて電話が許されたので、イアンは父親に連絡を入れた。送検される前に釈放されたいなら、父サラザールを頼るしかない。
留置場で一時間半ほど拘束されたあと、父が現れた。深夜にもかかわらず、高級スーツに身を包んでいる。
父親の失望した顔を見るのが恐くて、イアンはうつむいた。
「弁護士には連絡してある」
何の感情もこもらない声で言ったサラザールに目を向けることなく、イアンはボソボソと礼を述べた。
「ありがとう」
「何を考えていた?」
「別に。ただ飲みたかっただけ」
「飲みたきゃうちで飲めばよかっただろう。私のリッカー・キャビネットは誰でも自由に使えるんだから。そうすれば年齢を偽る必要もなかった」
父親をこんな時間に呼び出して面倒をかけたのが申し訳なく、イアンは逸らしていた視線を上げ、本音を打ち明けた。
「ごめん。本当はむしゃくしゃしてたんだよ」
サラザールは顎に力を入れた。非常に怒っている証拠だ。
「おまえは自分がいかに恵まれた環境にいるのかわかっていない。おまえと入れ替われるなら、ほとんどの人間が片腕を差し出すだろうよ。それなのにおまえときたら、むしゃくしゃしたから飲んで、挙句の果てに騒ぎを起こしただと?」
サラザールはコンクリートの天井を仰いだ。「いやはや」
誰のせいでこうなったと思ってるんだよ。
頭にカッと血が上り、イアンは前々から不満に思っていた疑問を口にした。
「父さんはどうして母さんと離婚しないの?」
「離婚? なぜ私が離婚しないといけない?」
「母さんが浮気してるの知ってるんだろ。だから父さんも外に刺激を求めることにしたんだよね、母さんを懲らしめるために」
サラザールがイアンを憐れむように見下ろした。
「いや、違うな。先に浮気したのは私だ。だが勘違いするな。ケインリスは何もかも承知の上で私と結婚した。つまり、私が忠実なタイプではないと最初から知っていたのさ」
なんだって!?
このときの驚きと怒りの感情は、何年経っても忘れられないだろう。
サラザールは続けた。
「大事なことだからよく聞け。くだらん中傷にいちいち左右されては馬鹿を見る。もしも喧嘩相手の誰かが死んでいたら、私の財力をもってしてもおまえを救えたかどうかわからんぞ。おまえのおばあちゃんがおまえに強くなってもらいたいと言ったのは、何も格闘家になってほしかったわけじゃない。あくまでも精神的にという意味だ。精神的に強くなれば、男は百人力だぞ。だからおまえも自分の周りに高い塀(へい)を張り巡らして、中に人を入れるな。誰からも影響を受けないようにするんだ。塀は常に補強しておく必要がある。そのためにはもっともっとメンタルを磨け。暴力では決して物事を解決できない。そのことをよく覚えておくんだな」
サラザールはスーツの襟を正した。「さて、おまえを出す手続きをしてくる。そこで頭を冷やしてろ」
父がドアの向こうに消えると、イアンは両手に顔をうずめた。最初の衝撃からは立ち直ったものの、母に対する申し訳なさのようなものがじわじわと込み上げてきた。母だけが悪者だと決めつけていた自分が悔やまれる。しかし、今の彼はこの気持ちにどう対処すればいいのかわからなかった。
小一時間後に父が再び現れたときには、イアンはすでに決意を固めていた。ケージ・ファイターを辞めて大学に戻る、そして身体と心を鍛錬し、本当の意味で強い人間になる。それが母への償いの第一歩だと信じて。 

第一章

車の窓を通して、冷気が肌を刺してくる。この寒空にジャケットなしではさすがに辛い。
ワシントンDCのこんな裏通りになど女一人で来るべきではないのだが、どうしても仕事が必要だ。だから、ジェーン・コノリーは今こうして人通りの少ない道を運転しているのである。
目指すイタリア料理店の裏口が見えてくると、彼女は車のスピードを緩めてシャツの匂いをくんくん嗅いだ。この白いボタンダウンとカーキ色のスラックスが一張羅(いっちょうら)だ。大昔に購入したものだが、なんとか見苦しくない程度には形を保っている。洗濯しておくべきだったのだが、近くにコインランドリーが見当たらなかったので断念したのだ。
汗臭くないのがわかって、とりあえずはホッとした。ホッとしたと同時に目の端に涙が滲んだが、ジェーンはその涙をまばたきで払いのけた。
泣きはらした顔で面接を受けても相手の心証を悪くするだけで、何の得にもなりはしない。
こんなところで諦めるものか。大口叩いて故郷をあとにした手前、成功せずしてすごすごとは帰れない。それ見たことか、と後ろ指を差されるだけだ。
ジェーンは背筋を伸ばして気を引き締めた。
あの店での面接が私の未来を左右する。間違っても車の中で生活していると悟られてはならない。住む家も持たない人間など、誰も信用してはくれないだろう。
交通の妨げにならないと思われる場所に車を止め、さきほどのレストランまで引き返す。
覚悟を決めてドアを開けると、それまで賑やかだった厨房がぱたりと静かになり、そこで働く人々がいっせいにこちらを見た。
太っちょの大男が言った。
「何か用かい?」
「はい。私、ジェーン・コノリーと申します」
ジェーンは気持ちを落ち着かせるために咳払いをした。「こちらでコックを募集中だと聞いたのですが」
「そりゃ何かの間違いだな」
男のぞんざいな口調に、ジェーンはたじろいだ。
「え?」
「聞こえなかったのかね。キッチンスタッフは間に合ってると言ったんだよ」
「で、でも、広告に出ていたのを見ました。こちらのウェートレスにも確認済みです」
ジェーンは湿ってきた手のひらをギュッと握った。
「ああ、あれね。ありゃ誤植だ。そういやあウェートレスに伝えるのを忘れてたな」
男が言うと、彼の後方にいるキッチンスタッフがクスクス笑った。
「私、どうしてもこの仕事に就きたいんです。何でも作れます。雇ってください! お願いします」
「悪いが無理だね。うちはCIA出身者しか雇わないから」
CIA? 
完全にからかわれていると知って、ジェーンは男を睨んだ。
「お店のキッチンにどうしてスパイが必要なんでしょうか」
そこここから失笑が漏れ、しばらくして男はようやく真顔になった。
「じゃあこうしようじゃないか。ウェートレスとしてなら雇ってやろう。あんただったら、お客もチップを弾むだろうよ」
「ウェートレスになることは考えていません」
「そうかい。だったら、……えーっと」
「ジェーンです」
「ジェーン、おまえさんを雇うのは無理だな。だいたい仕事を選べる立場なのかい? 本当にレストランで働きたいなら、キッチンだろうとウェートレスだろうと大差ないだろうが。期待に胸を膨らませて大学を卒業したのはいいが、現実はなかなか厳しいんだよ」
「私は卒業したてではありません。これでも二十六になるんです」
「おや、そうかい。まだ二十歳そこそこかと思ったよ。とにかくだ、ウェートレスが嫌なら、とっとと帰ってくれ」
そう言うと、男はキッチンスタッフ全員に向かって、
「さあおまえら、客に出すディナーにとりかかるぞ!」
と発破をかけ、厨房は再び賑やかさを取り戻した。

打ちひしがれたジェーンは、来た道をとぼとぼと引き返した。車を停めた場所までは少し距離がある。
太陽はすでに半分隠れ、歩道に沿って伸びる影が長い。アパートやタウンハウスの窓にはカーテンがかかり、その隙間から明かりが漏れてくる。
肉の焦げるいい匂いが漂ってきて、ジェーンは深呼吸した。
いつか今日のことを笑える日を迎えたい。そのためにはこんなことで挫けてちゃだめ。
「そうねえ、あのときはちょっとへこんじゃったわあ。でも私、がんばったの。がんばってやっと成功したのよ」
あるいは、
「そう、ある日突然チャンスが舞い降りたの。願い続けていれば、夢は必ず叶うのよ」
などと誰かに自慢するためにも。
男に生まれたらよかったのに、と何度思ったことだろう。そうすればあんなふうに馬鹿にされることもなかったし、ジオのような詐欺師に引っかかることもなかったのに。
 ——どっかの店で働くって? ジェーン、もっとデカいことを考えようぜ。おまえなら自分の店を持つことができる。立派にやっていける。なのになんで誰かの下で働かなきゃならないんだ?
褒められて舞い上がり、彼の言葉にコロッと騙されてしまった。
ジオは新しくオープンするレストランの写真をネットで集めてはジェーンに見せ、おまえにだってこれくらいできる、自信を持て、と焚きつけた。
もしもセックス目的で近づいてきたのなら、一も二もなく突っぱねただろう。しかし、巧妙な彼は決して無理強いしなかった。ジェーンは徐々にその気になり始め、気がつけば彼を百パーセント信頼していた。レストランを経営するという夢が実現する瞬間を、彼に見せてあげたいとさえ思った。
そしてとうとう自分が相続する予定の土地を担保に、限度額いっぱいの六万ドルの融資を受けることにした。キッチン器具の購入やいい物件を確保するために充てるという言葉を信じ、そのうち五万ドルを彼に預けた。しかし、すべては馬券に消えた。
定職にも就いていないジオから金を取り戻す方法はなかった。でもこのままでは担保である土地を取り上げられてしまい、家族に迷惑がかかる。
ジェーンには特技らしい特技もないと決めつけた兄や弟たち。せいぜい家族のために料理を作ったり家の掃除をしたりすることぐらいしか能がないと思われている。現に彼女はそうやって生きてきた。自立したいと訴えても、誰も本気にしてはくれなかった。だからといって、彼らを苦しめていいということにはならない。三代に渡って守り続けてきた土地を手放すようなことにでもなれば、ジェーンは決して自分を許せないだろう。
バッグの中で電子音が鳴ったので確認すると、電話はジオからだった。
「もう電話してこないでって言ったでしょ」
『ふん、何言ってやがる。金を持ってずらかろうなんて、そうは問屋が卸さないぜ』
電話の向こうからドスの利いた声が聞こえた。
「そっちこそ何言ってるの。人から五万ドルもくすねておいて!」
『だからあれは投資したんだって。何度言ったらわかるんだ』
「投資ですって? 違うでしょ。ギャンブルでスッただけじゃない」
『勝手に決めつけるな。とにかくあと一万。どんなことをしても出してもらうぜ。俺から逃げきれるなんて思うなよ』
「できっこないわ。だいいちお金はもう残ってないのよ」
『ふん、あるのはわかってんだよ。どうしても渡さないつもりならこっちにも考えがある。言うことをきかないとどうなるか、目にもの見せてやるまでだ。あとで吠え面かくなよ! ファッ——』
電話を切りながら、ジェーンの中で怒りと不安が大きく膨らんでいった。
あそこまで必死なのは、おそらく競馬の胴元あたりにでも借金が残っているからだろう。
そんなの知らない。あといくらむしり取れば気が済むの?
都会に出ればすぐにいい職に就けると思っていた。やればできるじゃないか、とみんなに褒めてもらえると信じていた。だが現実は、何ヶ月も就職先が見つからず、この二週間はずっと車の中で生活してきた。いざというときのために多少の蓄えは残しておきたかったので、食べるものといえば、ひからびたクラッカーとプロセスチーズだけ。
惨めさに泣きたくなるのを、ジェーンはぐっとこらえた。
自己憐憫はやめなさい。そんなことして何になるの。家に帰るという選択肢も捨てるのよ。
 帰るということは敗北を意味する。みんなに馬鹿にされるだけでなく、ジオに付きまとわれるのもわかりきっていた。それだけは絶対に避けたい。
車を停めてある小さな通りに着いた。愛車は古ぼけたシボレー。そのシボレーが視界に入ったとき、ジェーンは違和感を覚えた。車体が低くなったように見えたのだ。
急いで駆け寄ると、フロントガラスいっぱいにスプレーで文字が書かれていた。Fから始まる卑猥な言葉。タイヤの空気は四本とも抜かれ、よく見ると、鋭い刃物のようなものでえぐられた跡がある。
ジェーンは目を閉じ、これが夢であることを願った。しかし、再び目を開けても現実は変わらなかった。スプレーが消え、パンクは元通り、という奇跡は起こらなかったのである。
これでは運転はおろか、車中で生活するのも無理だ。もう銀行には頼れないので修理に出すお金も工面できない。
ただの脅しではなかったのだ。電話してきた時点でジオはおそらくこの場所がわかっていたに違いない。
フロントガラスの四文字を呆然と見つめていると胸がムカムカしてきて、ジェーンは路肩にしゃがみ込んだ。

* * *

イアン・プライスは真新しいマセラッティの運転席にいた。といっても、これは彼の車ではなく、従妹のエリザベス・プライス・リードに借りたものだ。つい先頃ワシントン郊外に引っ越したエリザベスは、東海岸にやってきたイアンをわざわざ空港で出迎えてくれただけでなく、車を使ってもいいと申し出てくれた。それで彼女を新居の前で降ろしてから、そのままメリーランドへ向かったのである。
メリーランドへは昔の仲間が集まるというので顔を出したのだが、正直行かなければよかったと思う。仲間のほとんどは金網で囲ったバトル、いわゆる総合格闘技をすでに引退し、今はジムを経営する者や、イアンのように業界から離れてまったく別の職を得ている者もいる。彼らと久々に会って少し酒も入り、みな大いに盛り上がった。どうしてあのとき急に引退したのか、と口々に尋ねられたが、イアンはのらりくらりとはぐらかし、決して事実を明かさなかった。
古い友人たちと再会するのは楽しいが、彼らと会うとどうしてもあの夜を思い出してしまう。十三年前の最悪のバースデー・ナイトを。
こんなことならロサンゼルスを離れるべきではなかったのかもしれないが、あそこはあそこで、今となっては少々居心地が悪い。
原因の一つは両親のこと。世間では〝永遠の夫婦〟などと呼ばれているが、もともと夫婦仲はよくない。そんな二人の関係が、最近ではさらに悪化してきた。そして弟のマークのことがある。
弟が婚約したのは大変喜ばしいことだ。イアンも心から祝福してはいるが、幸せボケでデレーっとした顔を見せられるたびにイライラしてしまう。一緒にクラブなどへ出入りする仲間がいなくなって寂しいだけだ、そう思うことにしてどうにか気持ちに折り合いをつけたものの、なんとなく居心地が悪いのは事実だった。
そんなわけで気晴らしにロサンゼルスを出てみたのはいいが、気分転換ができたとは言いがたい。

斜め前を走っていた車が急に割り込んできたので、車線変更を余儀なくされた。カッとなりかけた自分を抑えつつ、右の車線を走る。
エリザベスの家へ行くにはこの辺りで高速を下りるんだったな、と見当をつけながら運転していると、やがて見覚えのある出口が見えてきたので、イアンは迷うことなく高速を下りた。だが、一般道をしばらく走るうち、彼は自分の勘違いに気づいた。
ところどころアスファルトのひび割れた道路、壊れかけた看板、風に舞うゴミ。こんな小汚い町にエリザベスの住まいがあるはずはない。
ここはどこだ?
ストーカーの被害妄想に陥っているエリザベスがGPS機能付きのカーナビを取り払ったそうで、彼女の家の方角がわからないばかりか、現在地さえ不明だ。
イアンは携帯を取り出した。
〝電池が不足しています〟と表示されている。前の晩に充電し忘れたものだが、たぶん一回の通話ぐらいはぎりぎりできるだろう。
彼はエリザベスの番号を呼び出し、携帯を耳に当てた。ところが呼び出しを始めたと思ったらすぐに切れてしまった。もう一度携帯の画面を見ると、表示が×印に変わり、やがてそれも消えた。
エリザベスの持っている携帯電話とはキャリアが違うらしく、車内に搭載されている充電器は役に立たない。
「マジかよ」
イアンはそう独りごちて大きく息を吐き、誰かに尋ねようとスピードを緩めた。
三十分後、まさにお手上げ状態だった。通りがかる人々はいるのだが、彼らは一様にマセラッティを見て羨ましがるばかりで、エリザベスの住むマクレーンという名の町など知らないと言うのだ。
小さな交差点に差し掛かったところで車を止め、手のひらで顔をこすった。
さて、どうしたものか。とにかくエリザベスの家まで、どうにかしてたどり着かなくてはならない。
気を取り直して再びアクセルを踏もうとしたとき、どこからか女性の叫び声が聞こえた。
事件だろうか。でも、僕には関係ない。
イアンは他人と極力関らないようにして生きてきた。ましてや、首都とはいえこの辺りは裏通りで治安も悪そうだ。犯罪などに巻き込まれるのはごめんこうむりたい。
しかし、このときはなぜか彼の良心が黙っていなかった。
強盗、強姦、あるいはもっと深刻な事件かもしれない。叫び声を上げた女性が殺されかけているのだとしたら、それでもおまえは平気なのか。
自分の良心を恨めしく思いながらも、イアンは声のした方向へ車を進めた。
通りの先の街灯の下にスリムな女性が立っていた。あの女性がさきほどの声の主だろう。小型の車の横でバックパックを背負い、上を向いて深呼吸したかと思うと、口を大きく開けて叫んだ。
「わあ!」
なんだ、ありゃあ。
見たところ殺されかけているようでも緊急事態でもなさそうなので、イアンはそのまま通り過ぎようとした。すると、女性がいきなりイアンの車に目を留め、運転席に座る彼を大きな瞳でじっと見つめた。
 怒りと絶望に満ちたその目を見た瞬間、イアンはみぞおちにパンチを食らったように苦しくなった。
女性がふっと目を逸らした瞬間、涙が一粒零れ落ちたのが見え、これはいよいよ近づいてはいけない、この場から早く走り去れ、という心の声が聞こえた。
しかし、イアンはその声に従わなかった。
緊急事態とまではいかなくとも、彼女が本当に無事かどうか確かめずにはいられない。彼は運転席の窓を下げた。
「大丈夫かい?」
「これが大丈夫なように見える?」
女性が怒ったように訊き返した。
よく見るとタイヤはパンクし、車のフロントガラスも派手にやられている。通りすがりの人間がしたのだろうか。それとも彼女に恨みを持つ者のしわざだろうか。どちらにしても、あれでは運転は無理だろう。
改めて女性に目をやると、上着を羽織っていない身体は、かなり痩せこけているのが見て取れた。顎も尖りすぎていることから、栄養失調なのは一目瞭然だ。
ダイエットのしすぎだろうか。でなければ食事をする金さえないのか。
いやいや、おまえには関係ない、という心の声を無視してイアンは、
「家はこの辺?」
と尋ねた。
「どうしてそんなこと訊くの? あなたには関係ないのに」
「ちゃんと帰れるのかなと思って」
「迷子を保護しようって気にでもなった?」
相変わらずのけんか腰から察して、この女性がキレる寸前だとわかる。今誰かが手を差し伸べてやらないと、何を仕出かすかわからない。イアンのときと違って、彼女には留置場から助け出してくれそうな人物などいないのではないだろうか。そんな人がいるなら、今こうして車のそばで叫び続けてはいないはずだ。
「実はさ、迷子は僕のほうなんだ。マクレーンってところへ行かないといけないんだけど、道がわからない」
「迷子? ほんとに?」
女性はマセラッティを一瞥して、疑い深そうな目をイアンに向けた。
「ああ、本当だよ」
それでもまったく信じていない様子の彼女を見て、イアンはこれ以上自分にできることはないと悟った。それを残念に思う気持ちはこの際無理やり封じ込む。
「信じてもらえないならしかたないな。きみはこれから九一一に電話するんだ。車にイタズラした奴を捕まえてもらうためにね」
女性は外灯の下をウロウロと動き回りながら何か必死で考え事をしていたが、やがてイアンの目をひたと見つめた。そして、待ってて、と声をかけてから古ぼけた車のドアを開け、中から小さなダッフルバッグを一つ取り出した。
「どこか教会の前で落としてくれるんなら、マクレーンへの道順を教えてあげる」
知らない女性を車に乗せるのは気が進まなかったが、無事エリザベスの許へたどり着くにはこの女性に頼るしかなさそうだ。それにしても教会に何の用があるのだろう。
「とにかく乗って」

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