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スタート・ラインに戻りたい

名画をこの手に, 第7巻

「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ(マタイの福音書)」

そんなのは所詮きれいごと。自己主張を抑え、誠意を持って接した結果がこれ。世の中、最終的には力がものを言う。強い人間が勝って、得をするしくみになっているのだ。

悲しみと自己憐憫に浸っていた私は、周りが全然見えなくなっていた。でも、少し冷静になれば簡単にわかったはず、ルーカスは真実を話してくれていたのだと。

「愛している」と言われたとき、涙で心を閉ざしてはいけなかった。決して裏切るような人じゃないと信じてあげるべきだった。

プライドを捨て、鎧を脱ぎ捨て、自分を曝け出さない限り、彼の愛は取り戻せない。弱みにつけ込んで攻撃してくるような人じゃないと信頼して、最大の秘密を打ち明けなければならない。試みに失敗すれば、今度こそ立ち直れなくなるだろう。私だけじゃなく、身内まで悲しませることになる。

でも、今これをしなかったら、一生後悔する。

愛する人との将来を見据えて、一世一代の賭けに出るべきときよ。

 

心を開いて愛を口にした俺に、アヴァは手厳しい言葉を投げつけてきた。挙句、一方的に別れを告げられて、すべてがどうでもよくなった。

彼女のことはもう忘れる。これから先、どんなに無防備な姿を見せられようが、どんなに魅惑的な瞳を向けられようが絶対になびかない。これ以上コケにされてたまるもんか! 過去は封印してやる。

ところが何の心境の変化か、新たな一歩を踏み出しかけた俺に、今度は向こうから歩み寄ってきた。

第一章試し読み

「どうしてそんなに汚れてるの? 汚らしい手で触らないで」

毎回同じような意味のことを言われ続けているが、そんなときのママの声はいつも苛立っている。「今すぐ着替えてらっしゃい」

プイと目を逸らしたママは、俺の見ている前で双子の兄エリオットを抱き締めた。俺に遠慮してか、エリオットのほうは身をくねらせて逃れようとしているが、ママの力はそれ以上に強く、身動きすらも封じ込めている。

エリオットばっかりずるい。負けじと抱きついた俺から、ママは飛び上がるようにして離れた。

「まあ、何てことしてくれたの! これを見なさい、ルーカス。わたくしの服が泥だらけになってしまったじゃないの。汚い手で触るなっていま言ったばかりでしょう? 物わかりの悪い子ね」

「エリオットだって泥んこじゃんか!」

「でもこの子の泥はわたくしの服にはつかなかった。あなたのと違ってね」

 

エリオット、エリオット、エリオット。母はいつもそうだった。兄だけを可愛がって、俺のことは叱ってばかり。

——あなたが全部栄養を吸い取ってしまったから、エリオットはわたくしのお腹の中で死にかけたのよ。もしもうちが貧乏だったら、高度な医療が受けられなくて、この世に生まれ出ることは叶わなかった。

母からよく聞かされた話だが、事実かどうかはわからない。疎まれる理由はもしかしたらそんなものではなく、俺のほうだけに欠陥があるせいじゃないかと疑ったこともある。遺伝子レベルでの小さな欠陥でも、母から見れば差は歴然で、それが依怙贔屓に繋がっているのではないかと。

だとすれば、もしも俺とエリオットと同時に知り合ったなら、アヴァは迷わずエリオットのほうを選んだだろう。欠陥のある俺と違い、完璧で母親からも愛された兄のほうを……。

そんなことを思いながら、俺は通りのこっち側からアヴァの住む家を見つめている。

失いたくない。誰にも取られたくない。いっそこのままどこかへさらってしまおうか。嫌がられても罵られても、有無を言わせず連れ出してしまえば、彼女も観念するのではないだろうか。

そうだ。パリがいい。一緒に行こうと約束したし、ジェット機はいつでも離陸できる。アメリカから遠く離れて諦めざるを得ない状況に追い込めばいいんだ。

あのドアを蹴破って、絵なんかクソくらえ、俺にはきみが必要だと訴えかけた上で連れ出す。彼女だって言ってたじゃないか、気が向いたときに拉致していいと。

よし、この方法しかない。

通りの向こうへ一歩踏み出そうとしたとき、昨日の会話が蘇ってきた。

——身勝手な人。あなたって〝人間のクズ〟だわ。一緒にはいられない。もうおしまいにしましょう。

嫌だ! 離れたくない。俺は愛されたいんだ。

——人に強要するのはやめなさいって言ってるでしょう?

アヴァの言葉と母の言葉が重なって、俺の足が止まった。

おまえ正気か? 無理やり連れ出したりすれば、もっと嫌われるだけだとわからないのか!

突然、左脚に痛みが走った。血管の脈打つ音が頭の中で鳴り響き、立ちくらみが起きかけているのがわかる。

ダメだ。こんな状態でアヴァには会えない。出直そう。

俺はくるりと回れ右をして、家までの道のりをひた走った。痛みなんかどうでもいい。血管が切れても構うもんか。今はただ、一刻も早く逃げ帰りたい。

俺なんか、俺なんか、何をやってもうまくいかない。俺なんか、俺なんか、何をやっても裏目に出る。俺なんか、俺なんか、と題目のように唱えているうち、何もかもどうでもよくなった。身も心もくたくたで、一切のしがらみを断ち切りたくなった。

玄関ドアを叩きつけるように閉め、俺はまっすぐ書斎に向かった。

マントルピースの上のものを乱暴に払いのけると、飾ってあった何枚かの家族写真が床に落ち、大きな音を立てて写真立てが割れた。その中の一枚を拾い上げ、今度は写真立てもろとも力いっぱい壁に投げつける。ガラスの写真立ては粉々に砕け散り、破片がそこらじゅうに散乱した。

十歳の頃の俺とエリオットが、写真の中で微笑んでいる。俺の左頬に傷跡はなく、俺たち二人は瓜二つだ。しかし、似ているのは外見だけで、性格は似ても似つかない。みんなに好かれるエリオット。誰からも愛されずにひねくれた俺。がめつくて、嫉妬深くて、母親からも見放された子供。

俺はその写真を拾い上げて真っ二つに引き裂き、自分の顔が写っているほうをさらに小さくちぎった。光沢のある紙が赤く染まっていき、写真の顔がどんどん醜くなっていく。

「おやめください!」

家政婦のゲイルに肩を掴まれ、その手を振りほどく。「血が出てるじゃありませんか。いったいどうなさったん——」

「ほっといてくれ!」

俺は残った切れ端を丸め、ガラスの散乱する床に投げつけた。

大嫌いだ! アヴァのことも、母のことも、エリオットのことも!

だが、誰よりも憎むべきは、もしかしたら自分自身なのかもしれない。

 

 

【ママ、きれいに洗ったよ】

少年はバスルームに入り、洗面台で手を洗った。石鹸を使って、汚れを丁寧に落としていく。

洗えばきれいになるのに、ママはどうしてあんなに嫌がるの? 汚れた服も家政婦さんが洗ってくれて、ちゃんと元通りにしてくれるのに。

蛇口を止め、手をタオルで拭いてみると、白いタオルに汚れはつかなかった。満足した少年は、母親のいるリビングへと駆けていく。

母親はアーム・チェアに座って、ファッション雑誌か何かを読んでいた。すでに服を着替え、スリムな脚を優雅に組んでいる。

「終わったの?」

彼女は顔も上げずに尋ねた。

「うん!」

少年は腕を伸ばした。きっと褒めてくれる、よくできたわねと言ってギューッと抱き締めてくれる。そう期待して。ところが、母は仰け反るように少年の手を避け、よく見せて、とだけ言った。

誇らしげに差し出された手のひらを鋭い目つきで観察した母親は、息子に触れることなく命じた。

「引っくり返して反対側も見せなさい」

素直に応じた少年の爪の先をじっと見て、「ルーカス、全然できてないじゃない。まだ汚いわ。ちゃんと爪ブラシを使わないと駄目でしょう? 汚れも満足に落とせないようじゃ、ママはもう知りません」

母親は冷たく言い放ち、雑誌に目を戻した。

少年はすごすごとバスルームに戻り、石鹸と爪ブラシを使ってもう一度手を洗い始めた。今度は火傷するほど熱い湯で。

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