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カフェ・マキアートを飲みながら

プライス家の人々, 第6巻

大富豪のイアン・プライスは、クリスマス・イブに結婚式を挙げる予定にしている。お相手は、かねてより交際中のジェーン・コノリーだ。

ところが、事はすんなりとは運ばない。イブまで間がないからという理由もあるが、挙式にかかる費用の一切を自分が支払う、とジェーンの父親が主張し始めたのだ。

イアンの両親サラザールとケインリスも、結婚式の会場について互いの考えを譲らないものだから、事態は少々複雑な展開を見せ始める。

一方、イアンの兄デインは、愛する女性ソフィアに何度も求婚して、彼女の首を縦に振らせようと奮闘するも、ある事情からなかなかオーケーの返事がもらえない。

 

※この物語では、サラザールとケインリスの心情の変化を追うと共に、これまでの主人公たちが勢ぞろいします。従いまして、本編をお読みになる前に、ぜひ「プライス家の人々」①~⑤巻をお読みになることをお勧めいたします。物語の構成上、前作までをお読みいただくことで、時間的な経過と共にプライス家の人物それぞれの立ち位置を把握でき、尚一層お楽しみになれると存じます。   ナディア・リー

 

第一章試し読み

第一章

ケインリス・グレイザーは、マキアートの入ったカップに口をつけた。昔ハネムーンでイタリアへ行って初めて飲んでからというもの、大好きになった味だ。

サラザールとのハネムーンは、夢のような日々だった。あちこち訪ね歩いた観光地も素晴らしかったが、最も印象に残っているのは、フィレンツェの街の片隅で目にした何気ない光景だ。

オレンジの屋根や黄土色の壁、古風な石畳など、独特の佇まいは今も目に焼きついており、無性にふらりと訪れてみたくなることがある。

有名な広場や美術館のある賑やかな通りからは少し隔たったところに、小さなカフェがあった。午後の日差しが降り注ぐ中、そのカフェのテラスで過ごした静かなひとときが、ケインリスにとって至福の時間だった。傍らには愛するサラザールがいて、二人は何度も見つめ合っては、互いに笑みを交わしたものだ。

そのときに飲んだマキアートの味が忘れられず、こうして時おり自宅で作っているのだが、どんなに頑張っても本場イタリアの味には敵(かな)わない。

時は移ろい……、

このたび離婚が成立し、ケインリスにもやっと平和が訪れた。でも、本当にそうだろうか。何かを置き去りにしてきたような気がするのは、単なる思い過ごしだろうか。

普段クラシックはあまり聴かないのだが、ドビュッシーの『月の光』だけは唯一の例外だ。美しいピアノの音色に耳を傾けながら、この喪失感はどこから来るのだろうと自問しかけたケインリスは、慌ててそれを打ち消した。

考え抜いた末の離婚だった。

夫婦が互いに裏切り合っているという事実を、子供たち全員が知っている、ある日息子のイアンからそう打ち明けられた。そのせいで子供たちの心が傷ついていたと知って、これ以上サラザールとは一緒にいられないと痛感した。夫が誰とどこにいるのか勘ぐったり、何時に帰ってくるのだろうかと気を揉んだりして、鬱々(うつうつ)とした日々を送ることに疲れ果ててもいた。

ケインリスはマキアートをもうひと口飲んだ。

でも、そんな日々ももうおしまい。わたくしたちは離婚したのだから、お互いに関係ない。彼がどこで何をしていようが、いちいち想像するのも無意味なこと。そしてこれは、わたくし自身が望んだ結果。

震える息を吐き出したとき、

ピンポーン。来訪者を告げるベルが鳴った。

お客様なんてめったに来ないのに、いったい誰かしら。

ケインリスは眉をひそめながら玄関へと向かった。

「どなた?」

「こんにちは、ケインリス。ジェーンです」

ジェーン? イアンのフィアンセがわたくしに何の用かしら。

鍵を外してドアを開けると、そこには茶色の瞳をした小柄な女性が、にっこり笑いながら立っていた。シンプルな水色のワンピース、髪はポニーテール、リップグロス以外は化粧っけがない。どちらかといえば、服装や外見には頓着しない女性だ。

ケインリス自身はどんなときも必ずフルメイクをし、身なりを正すことを心がけている。外出先でも常に身だしなみをチェックし、決して気を抜かなかった。それがサラザール・プライスの妻としての役目と思ってのことだった。

「あら、珍しい」

ケインリスは感情を交えずに言った。

イアンとの間にあったわだかまりが解けたのは、ジェーンのお陰と言っても過言ではない。しかし、一歩間違えば息子との亀裂が深まって、取り返しのつかない事態になっていたかもしれないのだ。言い換えれば、彼女にはそれだけの影響力があるということ。用心するに越したことはないと思うのに、この娘相手だと、どういうわけかそんな気分にならなかった。

「どうぞ、お入りになって」

「ありがとうございます。お邪魔します」

ケインリスは先に立って居間へ向かいながら、お飲み物は、と尋ねた。「ちょうど今マキアートを作って飲んでたところなんだけど、あなたもいかが?」

「あの、さっきコーヒーを飲んできましたので、ジュースか何かあれば……」

お水でも構わないんですが、とジェーンは遠慮がちに付け加えた。

ケインリスはキッチンに行ってグラスにオレンジジュースを注ぎ、居間に戻ってジェーンに手渡した。

「ありがとうございます。いただきます。あの、お引越しパーティのときも思いましたけど、本当にステキなお住まいですよね」

「そう? ありがとう」

ケインリスはソファを勧め、自分もそこへ腰かけた。ラウンドソファと呼ばれる、柔らかい曲線を描く白いソファは革張りで、プライスの家を出てから初めて購入した家具の一つだ。自分の好みで買い求めたものはどれも、部屋の雰囲気にマッチして使い勝手もいい。誰にも気兼ねせずに選べるというのは一人暮らしの醍醐味だが、解放感と同時に一抹の空しさを感じるのは気のせいだろうか。

「それで、今日はまたどうなさったの? 頼み事でもあるのかしら」

ケインリスの指摘に、ジェーンは顔を赤らめ、少しモジモジした。

「わかります? 実はそうなんです」

「そりゃあわかるわよ。あなたが一人でここに来たのは初めてですもの、そう考えるのが自然だわ」

ケインリスがこのような遠慮のない物言いになるのは、義母シャーリーに鍛えられた所以(ゆえん)だ。シャーリーは何事も白黒はっきりつけなければ気の済まない人で、婉曲な言い回しを決して受けつけなかった。

実は、とジェーンはグラスをテーブルに置いて、身を乗り出した。ケインリスが水を向けたお陰で、切り出しやすくなったものだろう。

「イアンと話し合って、結婚式の日取りを決めました。それで、ぜひお手伝いいただけないかと思って。実際、マークとヒラリーの結婚式も時期がずれ込んでしまったことですし、ここはやはりあなたのお力添えがあれば、私たちとしても心強いんですが……」

ケインリスはその申し出に驚いたが、表情には出さなかった。

「マークたちの場合は、手が足りなかったり準備不足だったりして遅れたわけではないわ。ヒラリーが忙しかったせいもあるけど、他にも物理的にいろいろあったからよ」

三番目の息子マークは大変なロマンティストで、あくまでも〝ジューン・ブライド(六月の花嫁)〟にこだわっていたのだが、バネッサの妊娠発覚やシェインの帰国が重なったこともあり、結局実現できなかった。

「結婚式はいつなの?」

「クリスマス・イブを予定してます」

「そんなに先なら、時間は十分にあるじゃない。わたくしが手伝うまでもないと思うわ」

しかし、ジェーンはバツが悪そうに首を横に振った。

「それが……、来年じゃなくて今年のクリスマス・イブなんです。イアンがそんなに長くは待てないって」

ケインリスも今度は驚きを隠せず、二、三度瞬きを繰り返した。

「今年って、あなた本気なの? もう十月よ?」

わかってます、と言って、ジェーンは下唇を噛んだ。

「私のせいなんです。特別な日に結婚式を挙げたいって言い出したのは私なのに、仕事が楽しいものだからついつい後回しになって、なかなか決められなくて。あと、裁判での証言もあったし……」

ごろつきに襲われかけたジェーンを助けるためイアンが相手に怪我を負わせたのは、今年に入ってすぐの頃だった。その件で、二人揃って裁判所に何度か呼ばれたのは知っている。

イアンは元格闘家で、野蛮なスポーツには反対の立場を取っていたケインリスだが、あのときばかりは息子を頼もしいとさえ思った。戦い方を心得ていてよかった、感情的になって相手を殺さなくて本当によかった、と当時はホッと胸を撫で下ろしたものだ。

しかし、だからといって、裁判での証言と結婚式の日取りは無関係だ。はい、そうですか、と簡単に認められるわけがない。

「どう考えても無理よ。諦めなさい。結婚式の準備には最低でも八カ月、いいえ九カ月は必要だわ。イアンの社会的立場も考慮してもらわないと」

言った直後に後悔したが、一度口から出た言葉は取り戻せない。

すっと視線を逸(そ)らしたジェーンが次にこちらを向いたとき、案の定傷ついたような顔をしていた。

「彼の、社会的立場、ですか」

「ええそうよ」

可哀そうだとは思いつつ、事実なのだから仕方がないし、この手の話をオブラートに包んだところで意味はない、そう考えることにした。

イアンはプライスの人間だ。庶民的でありふれた結婚式を挙げさせるわけにはいかない。ここは心を鬼にして、現実を直視させる必要がある。

「駆け落ちでもするというのなら別ですけどね」

「それは有り得ません」

ケインリスは、少し冷めてしまったコーヒーを口に含んだ。

「どうしてクリスマス・イブなのか訊いてもいいかしら」

「兄の一人が母の日記を送ってくれたんです。母がそんなものを書いていたなんて、私はじめて知りました。日記は結婚式の日付から始まっていて、それが十二月二十四日だったんです。一年のうちで最も希望に満ちた日に、家族や近しい友人たちに囲まれて、それはそれは素晴らしい結婚式だった、日記にはそう書いてありました」

ジェーンは両手の指をきつく絡み合わせて、祈るような姿勢になった。「それでイアンと私は考えたんです、私の両親みたいに、イブに式が挙げられたら素敵だなって」

イアンの〝休日アレルギー〟を知っているだけに、今のジェーンの言葉は信じ難かった。しかし同時に、愛するジェーンが喜んでくれるなら何でもありだ、と彼が考えたとしても不思議ではない。

にしても、来年のイブまで待てばいいのに、それはできないと言う。「愛は盲目」とはこのことか。

「時間が足りないのは、百も承知です」

ジェーンは続けた。「無理難題を持ち込んでいるのもわかってます。ですが、私の母はすでに亡くなっているし、私の親友は遠くウェスト・バージニアに住んでいますので、なかなか会うこともできません。相談できるのはあなただけなんです」

そうまで言われては、ケインリスも考え直さずにはいられなくなった。本当は、感謝祭の前に南フランスへ引っ越そうと考えていたのだが、ジェーンに請われるまま式の準備を手伝うことになれば、延期せざるを得なくなるだろう。

「プロのウェディング・プランナーに頼もうとは思わなかったの?」

「もちろんそのつもりでした。でも、どのプランナーも〝不可能〟の一点張りなんです。やってみましょうと言ってくれる人は、一人もいませんでした」

「お金に糸目さえつけなければ、誰かしら受けてくれるはずよ」

「それが、あの、結婚式の費用は、父が全額負担すると言い出して」

「お父さまが?」

花嫁側が結婚式や披露宴の費用を負担するというのはアメリカに昔からある風習で、今もそれを頑なに守ろうとする人々はいる。しかし、こんなに急な話では、ジェーンの父親に金銭的余裕があるとも思えない。かといって、花婿側が全額出すと言えば、先方のプライドを傷つけることになるだろう。

現にケインリスの父親も、そのことではシャーリーとひと悶着あった。父は自分が払うと言って聞かなかったし、シャーリーはシャーリーで、粗末な結婚式は認めないと言い張った。ケインリスとしてはサラザールと結婚できさえすれば幸せなので、自分で父親を説得にかかった。

——お父さん、プライドも大事だけど、ここは私のためだと思って、シャーリーに花を持たせてあげてくれない?

花嫁自らの頼みとあって父親はしぶしぶながらも応じてくれ、事なきを得たのだった。

ジェーンは視線を落として、自分の手を見つめた。

「はい。お金に余裕はないと思うので、できるだけ安く抑えようとしてたんです。ところがイアンはイアンで、自分が全額出すから費用のことは気にするなと言って聞かなくて、最初からつまずいてしまいました」

あの子らしいと思いながら、ケインリスはそうねえ、としばし考えを巡らせた。

「じゃあこうしない? お式の費用はそちらで負担してもらうとして、披露宴はこちら持ちということでどうかしら。イアンのことでもあるんだし、それが公平だと思うのよ」

「私は構いませんが、本当によろしいんでしょうか」

「今は二十一世紀よ。花嫁に処女を求めるのもナンセンスなら、花嫁の実家が全部を負担しなきゃならないなんて考えも、かなり時代遅れだと思わない? しかも、結婚式絡みの費用は年々上がっているわけだから」

ケインリスはジェーンの手の甲をぽんぽんと叩いた。「とにかくお父さまに訊いてみなさい。なんなら、わたくしが直接お話ししてもいいのよ」

ジェーンは慌てた様子でかぶりを振り、早口に言った。

「いえ、それには及びません。私のほうでちゃんと話します」

そして彼女は、そっとため息をついて続けた。「イアンもムキになると譲らないときがあって……、私も喧嘩はしたくないし」

「そうね。あの子、確かに頑固なところがあるから」

「はい。でも意外でした。あなたは全面的にイアンの肩を持たれるものと思ってましたから」

「あら、どうして?」

「彼のお母さんだからです。母親って、息子のために最高のものを揃えてやりたいと考えるものなのかなって、漠然と思ってました」

「もちろん最高のものを揃えてやりたいとは思いますよ。ただね、最高といっても、必ずしも金銭的なことばかりじゃないわ。摩擦を極力生じさせないよう気を配るのも母親としての務めじゃないかって、この頃つくづく思うのよ」

ケインリスはジェーンをじっと見つめた。この、少し気が弱くて心優しき女性の力になってやらねば、と本気で思う。

「ただ、お手伝いさせていただくとなると、計画が狂ってしまうのよねえ」

ジェーンは特に驚いた様子を見せなかった。

「わたくしが何をしようとしているか、ご存知みたいね」

「はい。プロヴァンスに移り住むおつもりだと聞きました」

「ええ。それも感謝祭前には引っ越そうと思っていたのよ」

「え、そんな急な話だったんですか」

「じっくりと腰を据えて取り組めば、だいたいのことはとんとん拍子に進むものよ。でもいいわ。わかりました。そちらのほうは少し延期して、あなたがたのお手伝いをすることにします」

「ほんとですか! ありがとうございます」

感謝の気持ちが、ケインリスの心にまっすぐ届いた。

「但し、一つだけ約束して」

「はい、なんなりと!」

あまりにも無邪気に言いきられ、彼女はもう少しで吹き出しそうになった。

なんてウブな子だろう。

息子たちのお相手は、それぞれみんな個性的だ。

ヒラリーはマークより年上で、とてもしっかり者。彼女の生い立ちを考えれば、かなり早いうちから社会の荒波に揉まれただろうことも、容易に想像がつく。その芯の強さに惹かれ、何としても彼女をモノにしたいという確固たる意志が、マークをあそこまで大胆な行動に走らせたのだろう。

ジンジャーについては、シェインとは高校以来の付き合いでお互いに気心も知れ、シェインの良いところも悪いところも、おそらく母親のケインリス以上に把握しているに違いない。シェインが今も記憶を失ったままタイで隠遁生活を送っていたかもしれないと思うと、ジンジャーの存在そのものに対して感謝の念が湧いてくる。

長男の恋人ソフィアは、誰にも負けない根性と忍耐力と運動神経が備わった女性だ。フィギュア・スケート界において素晴らしい実績を残したが、不運な事故により引退を余儀なくされた。しかし、一度はどん底を味わいながらも、自力で這い上がってきた。そんな彼女だからこそ、デインの心を覆っていた硬い殻を難なく破ることができたのかもしれない。お陰で彼にもようやく春が訪れた。あんな性格では生涯独身を通すことになるかもしれないと半ば諦めかけていただけに、ケインリスはホッと一安心したものだ。

そしてジェーンはというと、ヒラリーともジンジャーともソフィアとも違う。東部の片田舎の出で世間知らずな女性が、自らの熱意とイアンの存在だけを頼りにLAに留まり、人々に支えられながら夢を実現させた。最初のうちこそ苦労も絶えなかったようだが、今では順調にキャリアを伸ばしている。

彼女の中にある繊細さや素朴さ、脆(もろ)さといったものが、まるで昔の自分を見ているようで、ケインリスとしても放っておけない。愛さえあれば何でも解決できる、という考えの甘さまで似ていては、危なっかしくて見ていられないのである。

「内容も聞かないうちから、あっさり請け負うものじゃないわ」

ケインリスは敢えて突き放すような言い方をした。「簡単にできる約束じゃないかもしれないのよ」

ジェーンがごくりと唾を飲む音が聞こえた。

「これから先、ときには自分のプライドを捨てないといけない瞬間が来るかもしれない。でも、どんなときも、あの子に対しては正直でいると約束できる?」

「それはどういう——」

びっくりしたように目を見開くジェーンを、ケインリスはさらに追いつめた。

「できないというのなら、この話は白紙になさい」

「イアンとの結婚を諦めろとおっしゃるんですか」

「あなたはどうなの? そう言われて、すんなりと諦められるかしら」

「もちろんできません!」

ケインリスはジェーンの肩に手を置き、その顔をじっと覗き込んだ。

「わたくしはね、誰に対しても正直になれ、嘘をつくな、と言ってるんじゃないの。もちろんわたくしも含めて。だけど、イアンにだけは、絶対に嘘なんかつかないでいただきたいわ。どんな小さなことでも、たとえあの子を傷つけることになったとしても」

「ケインリス……」

「わたくしのような結末を迎えてほしくないから言ってるの」

サラザールとの離婚は、元はといえばわたくしのせい。わたくしが見栄を張ってついた嘘を、彼が信じ込んでしまったから。そこから二人の気持ちがだんだん離れていってしまったから……。

 

サラザールとの結婚式から数か月経ったある日、友人のオリビア・フェアチャイルドと電話で話していた時だった。新婚生活の様子を嬉々として聞かせたところ、結婚に憧れを抱いていると馬鹿にされ、カッとなってつい口走ってしまった。

——憧れてなんかいない。サラザールと結婚したのは彼がお金持ちだからよ。それ以外に理由なんてある?

 

まったくの口から出まかせだった。ただオリビアを黙らせたい一心から出たひと言だったのに、あの会話を、よもやサラザールに聞かれていたとは夢にも思わなかった。

つい最近になってそれがわかったとき、彼女はひたすら後悔した、オリビアにどんなに嫌味を言われても、攻撃的な態度を取られても、決してついてはいけない嘘をついてしまったと。取り返しのつかないことをしてしまったのだと。

ジェーンの肩から手を離し、ケインリスは言葉を重ねた。

「あなたとイアンの絆がどれほど深かろうと関係ないの。二人の間にちょっとでも嘘が入り込んだら、その絆は一瞬で壊れてしまうわ。だから約束してちょうだい、あの子に対してだけは、決して嘘をつかないと」

ジェーンは澄んだ目で、まっすぐにケインリスを見つめ返した。

「お約束します」

「よかった。じゃあ、わたくしもお約束するわ」

「嬉しい。ほんとに心強いです!」

ケインリスは、冷めきってしまったコーヒーを最後まで飲み終えた。

この子は自分が何を約束させられたのか、わかったつもりになっている。けれど、人生はまだまだ長い。その約束が、将来大きな足かせになり得ることなど、想像もしていないだろう……、今はまだ。

「これから、少しお時間ある?」

はい、と応じたジェーンが、腕時計をそっと見た。

「お昼にソフィアと約束してるんですが、それまでは大丈夫です」

「それなら、クリスマスまでの短い期間で何ができるか、さっそく考えてみなくてはね」

 

* * *

 

サラザール・プライスは、自分の前に次々と並べられていく朝食に目をやった。ピーマン入りチーズ・オムレツとその隣にカリカリベーコン、バスケットには焼きたてのクロワッサンとバターロール、透明なガラスの器に入ったフルーツ・ヨーグルト。コーヒーカップからは湯気が立ち昇り、独特の香りを漂わせている。

暖かな日差しの入るサンルームで、他に食事する者はいない。いつも通りの朝食に、いつも通りの風景。いつもと違うのは、今朝は一段とひどい虚無感に襲われていることぐらいか。

一人で食事するには、このテーブルはあまりにも大きすぎる。彼はコーヒーを啜りながら、そんな気持ちを打ち消した。

一緒に暮らしていた頃から、ケインリスと向かい合って食事することは稀だった。たまに二人同時に席に着いたとしても、互いの存在を無視したまま、無言で食事を済ませていた。

それなのに、今さら何を寂しがる?

執事のアルが音もなく歩み寄り、ウォール・ストリート・ジャーナルをテーブルの上に置いた。その新聞に一度は目を落としたものの、見出しにすら注意が向かなかった。サラザールの意識は、まったく別のところにあったのである。

——あなたのお金なんて、最初から関係なかったわ。わたくしは、たとえあなたが一文無しでも結婚してました。

あの日、ケインリスが傷ついたような目でそう言った。その光景は、今も脳裏にしっかりと焼きついている。

アルが遠慮がちに咳払いをした。

「お邪魔して申し訳ありませんが、一つお伺いしてよろしいでしょうか」

「なんだ?」

「元の奥さまがプロヴァンスへ引っ越されるのをご存知でしたか」

コーヒーカップを口に持っていきかけたサラザールの手が宙で止まり、冷たい何かが胸の辺りを駆け抜けた。

「もちろん」

彼はカップを置き、平静を装って続けた。「それがどうかしたのかね」

「いえ。もしやご存知ないのではと思いまして」

サラザールは、強がってふん、と鼻を鳴らした。

「知っているに決まってるだろう」

「さようでございましたか」

それならよろしいのですが、と言うと、アルは一礼してドアの脇まで下がっていった。 空中の一点を見つめてはいるものの、サラザールの視界には何も入ってこない。

ここを出ていったときに盛大な引っ越しパーティをしたと聞いた。あれはいったい何だったんだ。パーティは単なる序章で、離婚の本当の目的は、他の国で暮らすことだったというのか。まあいいさ。フランスはそう遠くない。たかだか十一時間もあれば行ける。

そう自分自身を納得させてオムレツをフォークですくったサラザールだったが、それも宙に浮かせたまま、彼はじっと考え込んだ。

まったく。どうしてアメリカ大陸から出ていこうなんて考える?

ケインリスがフランスに旅立ってしまうという知らせは、彼女が離婚を切り出したとき同様、サラザールをひどく悩ませ始めていた。

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