忘れえぬ面影シリーズ, 第2巻
お待たせしました。忘れえぬ面影シリーズ 第二弾、『二度目のアバンチュール』をアップいたします! 超有名ロマンス作家たちを次々と唸らせた秀作です。
原作はNadia Lee。アメリカでは売れっ子の作家。
今回は、Seduced by Billionaire book 2の 『Pursued by Her Billionaire Hook-Up』というお話。
やむを得ない事情から香港を追われたケリーは、親友ナタリーの住むアメリカへとやって来た。そこで再会したプレイボーイ、イーサン。
この人は扱いやすくなんかない。だから、断じてあたしの恋人にはなり得ない。
そう思い込んでいたケリーだったが、物事は加速度的に複雑になっていき、気がつけば自分を追い詰めていた。
彼女は簡単にはなびかない、と踏んだイーサンは一計を案じる。その戦略もいったんはうまくいったように見えたのだが、そこには意外な落とし穴が待ち受けていた。
二人の関係に発展は見られるのか。背後に横たわる難問に、解決の目処は立つのだろうか。
本シリーズの核心に迫っていきます。どうぞ、お見逃しなく!
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二十時間に及ぶ空の旅を終え、機体はようやくワシントン・ダレス空港に到着した。
飛行機を降りて同じ方向を目指す大勢の乗客の中に、ケリー・ウィルソンの姿もあった。グレー一色の地味なスーツに黒い革のフラットシューズ、緩くウェーブのかかった赤茶色の髪とほとんど化粧っ気のない顔……、お堅い投資銀行家そのものの出で立ちの中で、ショッキングピンクの大きなキャリーバッグだけが異様に人目を引いている。
入国審査と税関を通過し、乗り継ぎ便への搭乗手続きを済ませたケリーは、そばにあった女性用トイレにさり気なく入っていった。
到着ロビーに出たところで注意深く周りに目を配ると、香港からずっとケリーを尾行していた男たちの姿がなくなっていた。黒ずくめの、いかにも怪しげな二人連れだ。
どうやらうまくいったらしい。
テキサス行きの飛行機に乗り継ぐと思い込み、そちらのほうへ先回りしたのか、それとも、女性用トイレの周辺を未だにうろうろしているのだろうか。
〝敵〟の裏をかいたと確信し、ケリーは会心の笑みを浮かべた。テキサスの実家に戻るつもりなど、最初からなかったのだ。
黒髪のウィッグにそっと触れ、ずれていないのを確認する。クレオパトラそっくりなストレートのワンレングスと、真っ赤なルージュにつけまつげ、さきほどまでのケリーとは似ても似つかない。その上、日ごろ着ることもないカジュアルな服と、わざと大女に見せるために履いた十センチのヒールのお陰もあり、一見しただけでケリーだと見破ることのできる者はまずいないだろう。変装ぶりは、それほど徹底していた。
三十代前半と思われるショートヘアーの女性が彼女の横をすり抜けて行き、男性と幼い男の子ふたりの元へ駆け寄った。子供たちはぽちゃっとした小さな腕を精一杯広げて母親にしがみつき、男性のほうは妻にキスして荷物を受け取っている。
その様子をなにげなく眺めているうちに、薄れかけていた痛みが鮮明に蘇ってきた。自分のせいで壊れてしまったものは、時が経っても決してなかったことにはならない。そのことを改めて思い知らされる。心に巣食う苦しみから本当の意味で解放される日など、永遠に来ないのかもしれない……。
さきほどの家族はひとしきり再会を喜び合うと、四人で手を繋ぎながら歩み去っていった。
アメリカの地に着いて一時間もしないうちに、幸せそうな光景を見せつけられてしまった。
仲むつまじい家族の後ろ姿を無意識に目で追っていたケリーだったが、ふと我に返って深く息を吸い込むと、出迎えの群集に目を向けた。
ナタリー・ホールはどこだろう。いや、違う、今はナタリー・デイモンだ。アメリカでも指折りの億万長者とつい最近結婚したばかりなのである。
空港でタクシーを拾うと言ったのに、彼女は頑として譲らなかった。
『大親友をタクシーなんかに乗せられるもんですか。動かずにじっとしてて、ね、いい? 絶対迎えに行くから!』
ケリーは辺りを見渡して眉をしかめた。アジア人特有の黒く美しい瞳をした友人、優しく微笑むその姿がどこにも見えない。飛行機が一時間以上も遅れたから、おそらく待ちきれなくなったのだろう。
——新婚さんは、何かと忙しいんでしょうし。
念のため、もう一度よく探してみると、〝ケリー・ウィルソン〟と走り書きされたボードが目に飛び込んできた。と同時に、それを掲げている男も視界に入り、ケリーは思わず二度見する。
鍛え上げられた身体には余分な贅肉がどこにもない。それがスーツの上からでも窺え、図らずもぼーっと見とれてしまう。
男は別の方角を向いていて顔がはっきりとは見えないが、その姿には既視感を覚えていた。
どこで会った人だろう。
ブランド物のスーツ、控えめだが高級そうな腕時計、右手の中指のプラチナリング、ぴかぴかの革靴、そのどれをとっても洗練されている。リムジンの運転手が一年間必死に働いても、手に入れることなど到底できないような代物ばかりだ。
——あんなゴージャスな人が運転手!?
まさか。これはナタリーたちの悪い冗談だろうか。それとも、ある種のお節介を考えついてしまったか。
ナタリーなら、ケリーのためにそれなりの相手を探すぐらいのことはやりかねない。彼女自身が素晴らしい恋に落ちたものだから、周りの人間にも幸せになって欲しいと願ったとしても不思議ではなかった。愛の力を本当に信じているのだろう。
——ところがどっこい、その手は、あたしには通用しないんだよね。
ケリーにだって信じているものはたくさんあるけれど、〝愛〟なんていうものはこれっぽっちも信用していなかった。いや、正確にはちょっと違う。確かに〝愛〟は存在するのだろう。ただ、自分には縁のないものだと思っているだけだ。
社会的地位にしろ、マイホームやマイカーにしろ、キャリアを積んだ大方の女性が持っていそうなものなら、ケリーだってついこの前まで全部持っていた、恋人以外は。
今はたまたま失業中で住む家さえ決まっていないが、そういったものは誰かにバレる前に取り戻せばいい。
——だけど、男だけはねぇ……。
親友がどんなに世話を焼いてくれたとしても、この点だけは譲れない。
ケリーは決心も新たに、スーツケースを引っ張りながら男に近づいていった。
見ず知らずの女の出迎えを押しつけられて、しかもこんなに待たされたのだ、相手が少々気の毒に思えてきた。だが、その面倒事ももうすぐ終わらせてあげられる。ケリーにしても早くホテルに落ち着きたいし、荷物をほどいて一週間分の洋服も整理したかった。何よりこれからのことをじっくり考えなくてはならない。
「こんにちは」
百七十センチを優に超える身長に踵の高いヒールを履いていても、見上げながら話しかけなくてはならなかった。「ケリー・ウィルソンです」
男は誰かと電話中らしく耳に黒いイヤフォンをはめている。相手との通話はいったん中断したものの、ケリーに顔を向けることなく手を上げた。
「挨拶はあとにして、先に車に乗ろう」
低音の落ち着いた声だった。どこかで会ったことがあるという感覚がますます強くなる。
それにしても、なんてセクシーな声だろう。この人が「僕は卵が好き」とかどうでもいいことを言っただけで、足の指がエビのしっぽみたいにくるりと縮んでしまいそうな気がする。
男性を見てため息をついたり、声を聞いただけでうっとりしたりという感覚からは、久しく遠ざかっていた。激しい恋がしたいなどと思ったこともない。多忙な彼女にとって、そんな暇は全くと言っていいほどなかった。幾重もの重責が肩にのしかかった状態で、ロマンチックな関係を維持するだけの時間とエネルギーが生み出せるはずもない。たまたまその両方に余裕があるときに限り生活に花を添えてくれるもの、ケリーにとって〝男〟とはその程度の存在だった。結果として、大学時代も含めこれまでに付き合った相手は片手の指に収まる程度だ。
しかし、今や彼女を束縛し続けた仕事はなくなってしまった。恋愛する暇ならいくらでもある。
そう考えれば、目の前の男は自分へのご褒美ということかもしれない。セレンディピティ? 幸運の女神が微笑みかけてくれているのだろうか。
通話を終えたらしく、マイク付イヤフォンをポケットにしまってから、男がこちらを振り向いた。
そのあとのことは、スローモーションのように全てがゆっくり動いている気がした。
憎らしいくらい長いまつげ、誰もが一度は振り返りたくなるようなハンサムな顔立ち……。その青い目に見つめられているうち、肺に空気が入りすぎたように息苦しくなってくる。
ケリーには過去にたった一人、死ぬほど激しい夜を過ごした相手がいた。抗うことのできない欲望に彼女を駆り立てた唯一の男。その彼が今、目の前にいる。
イーサン!
この人の腕の中でどんな夜を過ごしたか……、あのときの記憶が鮮明に蘇ってきた。
彼は彼で、こちらの顔を穴が開くほど凝視している。ケリーの肌がチリチリと痛み、居心地が悪くなった。視線で服を脱がすなどというお決まりのパターンではない。それだったら、どのようにも対処できる。そんな表面的なものではなく、肌の奥のそのまた奥、心の中まで見透かされそうな……。
いつものパワースーツなしではすっかり無防備になってしまい、気づけば手のひらが汗ばんでいた。急いでバリアを張って自分を守る余裕すらない。
——なぜそんな目であたしを見るの?
もの問いたげな視線だと感じるのはこちらの単なる勘違いかもしれない。長旅で疲れてもいる。判断が鈍ったとしても無理からぬところだ。
周りにいつも女が群がっているようなタイプの男からしてみれば、そもそもあの夜のことなど記憶にもないだろう。自分のことなんか、どうせ覚えてるわけ……、
「ジャクリーン?」
イーサンが囁いた。
——えっ!
しかも名前まで。変装だってしているのにだ。
「イーサン・ロイドだよ。覚えてる? すっかり見違えちゃったけど、きみはジャクリーン・ウィルソンだろ? あれ、待てよ。確かケリーと名乗ったよな」
そう言いながら、自分の持っているボードをもう一度確かめている。
ケリーは軽く頷くのが精一杯で、口を利くことも忘れていた。
以前より筋肉もついて、肩周りは広くがっしりしている。また、年齢や経験がその声のトーンに深みを与えたと見え、イーサンは七年前のあの夜よりもさらに魅力的な男性になっていた。
甘く、夢のようなひとときだった。あのとき何をされたか身体が全部覚えているものだから、太ももの奥の筋肉が自然と緊張してくる。
「どっちがほんとの名前なんだい?」
両方とも、とケリーは弱々しく応じる。「ジャクリーンというのはあたしのミドルネームなの」
大学時代、家族と距離を置きたいという理由から、彼女はミドルネームを名乗っていた。一族のうちの誰かが万一こちらの様子を見に来たりしても、すぐには探し出せないように、と用心してのことだ。しかし、訪ねてきた者はいなかった。結局、ケリーの存在など誰も気に留めていないということだ。それがはっきりした以上、ミドルネームを使い続ける意味はない。それで、卒業後に名前をファーストネームに戻したのである。
イーサンはかぶりを振った。
「道理で」
「道理で何よ」
「いや、なんでもない」
どこか含みのある言い方が気になるものの、それ以上教えるつもりのないことが、表情から見てとれた。
「あなたは今も昔もイーサンなのね」
「もちろん。僕はこれから寝ようとしてる相手にミドルネームなんか名乗らないからね」
気まずい沈黙が流れた。周りをたくさんの人々が通り過ぎていく中、ケリーの心臓は異常なほどドキドキしている。
過去を蒸し返されるのは好きじゃない。それに、ファーストネームを名乗ろうとミドルネームを名乗ろうと、どっちだっていいではないか。何の迷惑をかけたというのだ。
彼女は息を吸い込んで、無理やり明るい調子で言った。
「そろそろ行きましょうか」
軽く頷いたイーサンは、小さめのスーツケースをちらりと見て、
「荷物はそれだけ?」
と尋ねた。
「他のは香港から直接送ったから、もうホテルに届いてるんじゃないかな」
ここにあるのは、身の回りの細々としたものだけである。
彼女は渡航前に大きなスーツケースを六つ用意した。そのうちの四つに手持ちの服全部とお気に入りの靴などを入れて滞在予定のホテルに直送し、残りの二つにはどうでもいいガラクタを適当に詰めた。香港出国時にそれら二つを空港のチェックインカウンターに預け、ここダレス空港で税関を通したあと、今度はテキサス行きの飛行機にそのまま受託手荷物として預けた。その足でトイレに行って念入りに変装し、派手なキャリーバッグに隠し入れたスーツケースのみを手元に残した、というわけである。
キャリーバッグをトイレに置き去りにしなくてはならなかったのは少し残念だったが、どこに潜んでいるかわからない追っ手の目をくらますためなら、それくらいの犠牲はしかたがない。お陰でこうして再び自由になれたのだ、背に腹は変えられなかった。
祖父の許にはこちらの筋書き通りの報告がいくだろう。大事なのは、今後の自分の居場所を知られないことと、本当は何を企てているかを悟られないこと。そう、香港に二度と戻るつもりはない、ということを。
荷物を持つよ、とイーサンがスーツケースのハンドルに手を伸ばした。二人の肌が触れ合った瞬間、ケリーは熱いものでも触ったかのように手を引っ込めた。
それを特に気にした様子もなく、イーサンはボードを近くのゴミ箱に投げ捨てると、彼女を駐車場ビルへ導いた。片手でスーツケースを引っぱり、もう片方の手は彼女のひじに軽く添えられている。その触れ方はとても礼儀正しいものだったが、礼儀以上の何かが感じられるのは気のせいだろうか。
これだけ近くを歩いていれば、ピリッとした男らしい匂いが否応なく鼻をくすぐる。力強い身体にもたれかかって、そのまま溶けてしまいたい……。
ケリーはこの反応に愕然とした。全くいつもの自分らしくない。
自信に満ちた足取りで隣を歩く男は、ケリーの周りにいる男たちとは明らかに違う。彼らは決してこういう歩き方はしないし、こんなふうに触れても来ない。そして、彼らが自分に話しかけるのは、いつも仕事のことだけだ。企業合併について意見を求められたり、集計表のことで指導して欲しいと言われたりするときぐらい。
付き合っていた男たちでさえ、彼女に対してはどこか遠慮がちだった。繋がれた手を一度でも引っ込めたら、あとは二度と再び握ってこようとしない。こちらからその気にさせるような態度を取らない限り、彼らのほうから強引に仕掛けてくるようなこともまずなかった。扱いやすい男だけを選び、絶えず相手との距離をコントロールしてきたのである。彼らの中の誰とも、〝恋人どうし〟ですらなかったのかもしれない。
かといって、この逞しい男が自分に相応しいかというと、それはあり得ない。ケリーの中の研ぎ澄まされたレーダーがそう感知していた。あのときも、今も、異常な警告音を発している。
彼はこちらが与えてもよいと思う以上のものを欲しがるだろう。何かにつけ主導権を握るタイプでもある。とても魅力的な男だが、この二つの点が、付き合ってもいいと思える男の条件から外れていた。それがあの日、一夜明けてこっそり逃げ出した理由だ。
のちにばったり会った彼の友人に言われた言葉で、自分の判断が間違ってはいなかったと裏付けられた。
『やつはきみのこと気に入ってるんだよ、ジャクリーン。はした金ほしさに必死になって働くことなんかないさ。あいつはびっくりするほどの大金持ちなんだぜ。電話してうまくやれよ。ほい、これが連絡先』
自分で稼いで学費を払っている女子学生は、援助交際が必要なほど金に困っているはずだ、という理屈になるらしい。イーサンと付き合えば生活が楽になる。その見返りとして言いなりにさせようとでもいうのだろう。
ばかばかしい。
だいたい、もし簡単に金を手に入れたければ、とっとと家族の許に行って泣きつけば済む話だ。金なら唸るほど持っている彼らのところへ——。
ケリーは遠い記憶を振り払った。
今さらそんなことを思い出しても仕方がない。自分を出迎えるのにこの人が適役だ、ナタリーがそう判断しただけのこと。彼女は人を見る目を持っている。実は運転技術がトップクラスで、最高の走りを見せてくれるのかもしれないではないか……。
二人は黒いBMWのところまでやって来た。ケリーのために助手席のドアを開けてから、イーサンは見かけよりもずっと重いスーツケースを軽々と持ち上げてトランクの中に入れた。
昔に比べて一段と大きくなったあの筋肉、あれはただの飾りじゃないというわけだ。
ケリーは心の中で賞賛を送りながら、柔らかなシートに身を落ち着けた。なめらかで豪奢な革をなでると指先がゾクゾクする。
車の中には、文字通り何も置かれていなかった。ゴミ一つ、レシート一枚落ちていない。新車の匂いがするところをみると、購入して間がないのだろう。
イーサンが運転席に座り、ドアをパタンと閉めた。パワフルなエンジン音が響いて、その振動がスカートを通して伝わってくる。
太ももの間に感じる心地よさは、きっとそのせいだ。決して隣に座っているのがゴージャスな男だからじゃない……。
「マリオットでよかったんだよね?」
駐車場から車を出しながら彼が尋ねた。大きな手が軽くハンドルに添えられている。
「そうよ。ナタリーの家から割と近かったから。ええっと、通りの名前は……」
ケリーは携帯を取り出して住所を読み上げた。「マリオットに泊まるってのはナタリーから聞いたんでしょ?」
イーサンは頷いた。
「で、あなたは……、何者?」
なぜイーサンがここにいるのかを知っておく必要がある。カラクリさえわかれば、この戸惑いは消えるはずだから。興味があるのは謎を解く過程であって、謎そのものではない……、と思う。
彼がちらっとこちらを見た。
その視線から足を隠したくて、スカートの裾を引っ張ってしまいそうになる。カムフラージュのために奇抜な服装をしたのは、我ながら名案だと思っていた。事実、探偵たちはカチッとしたパンツスーツ姿のケリーしか知らないから、彼らを巻くのは容易だった。しかし、ミニスカートなんか穿いていると、足の四分の三は露出してしまうし、タイトなTシャツは身体に張りついている。これじゃ身体の線が丸わかりだ。
ケリーは急にさらし者になったような錯覚にとらわれ、こんな服装をした自分を恨めしく思った。
彼女が落ち着かない理由はわかっているとでも言いたげに、イーサンは笑いをかみ殺している。
「何者かって? きみを空港に迎えに来た男さ」
「だってあなた、どう見ても運転手なんかじゃないじゃない」
狼狽を隠して指摘する。
ホテルに着いたら、もっとマシな服に着替えよう。それまでもう少しの辛抱だ。
「ナタリーの友だちでさえないでしょ。彼女の口からあなたの名前が出たことなんかないもん。もう一度聞くけど、あなた何者?」
イーサンはくすくす笑い出した。
「僕は結婚式で新郎の介添人をしたのさ。ベストマンだよ」
なるほど。ということはアレックスの親友か。
アレックス・デイモンといえば、世界中から注目を集めるほどの大富豪だ。イーサンも同じ上流階級の人間に違いない。『びっくりするほどの大金持ち』というのは、あながち誇張でもないのだろう。
「ベストマンの役目って、式のあと何週間も経ってから新婦の友人を空港で出迎えることも含まれてるの?」
「いや、そうじゃないよ。彼女には……、借りがあるんだ。大きな借りがね」
それ以上話したくなさそうな様子が気になる。
「で、きみは?」
「あたし? あたしは別にナタリーに借りなんかないけど」
イーサンは、また可笑しそうに笑った。ケリーが覚えている昔の彼そのままの、温かく包み込んでくれるような笑い声だ。この声の魅力に参ってしまったことも、あのとき屈服した理由の一つだった。
「で、どんな借りがあるの?」
彼は少し目を細めたが、口許には笑いを残している。
「もうちょっとで彼女からアレックスを取り上げてしまうところだったんだ」
「まぁ! そんな深刻な〝借り〟だったなんて想定外。アレックスってバイセクシュアル?」
「まさか! 違うよ、そんなんじゃない。仕事上のことなんだ。当時、僕はナタリーがスパイ行為を働いてると疑って、アレックスにもそう主張した。もちろん、最初は信じちゃくれなかったさ。でも僕たち、いや、僕は絶対に彼女がライバル社と通じてると思い込んでたんだ」
ケリーは目を丸くした。
「うそ! あれの言い出しっぺがあなただったってこと!?」
「そう。とんでもない勘違いだよね。一生の不覚だったよ。ナタリーには本当に悪かったと思ってる」
「ふーん。それで? 当ててあげましょうか。ナタリーのことだから、きっとあなたのことすぐに許したでしょ。いつか必要な時がきたら何かしてもらうから、とか言って。それで今回のことを頼まれた、違う?」
「まあ、そんなとこさ」
イーサンはハンドルを素早く左に切った。「きみはまだバイオリンをやってるの?」
唐突に変わった話題にも、ケリーは難なくついていける。
「ううん。もう何年も前にやめちゃった。投資銀行に入ってからは、全く時間が取れなくて」
「ああ、そう言えばナタリーがそんなこと言ってたな。部長だっけ? すごいよな、その若さで」
「ありがと。でも仕事辞めちゃったの。失業中ってこと。すぐ次を探すつもりだけどね」
親友にも打ち明けていないのに、なぜか口からぽろっと飛び出てしまった。
「辞めた?」
彼はケリーの全身をすばやく一瞥する。「きみなら、その気になればすぐに次が見つかるだろうけど」
こんなありきたりのお世辞にさえ顔が赤らみ、頭の中で考えていたことが全て吹き飛んでしまった。ティーンエイジャーのような自分の反応にも驚いている。もう二十八にもなるというのに、本当にどうしてしまったのだろう。
とはいえ、もしこれが他の誰かの言葉だったとしたら、ただのおべっかにしか聞こえなかったと思う。あきれた表情だけして見せて、あとは無言でやり過ごすところだ。
イーサンの口から出てくる言葉は、なぜか甘く誘われているような気持ちにさせる。それはたぶん、言葉そのものではなく声のトーンや喋り方、目つきといったものが、芳醇なウイスキーのようにすべての感覚を揺さぶるのだろう。不安定になっているのは服装のせいだけじゃないということだ。たとえスキーウェアを身に着けていたとしても同じこと。
どうにかして自分のペースを取り戻さないと、何かおかしな方向に発展してしまいかねない。ケリーの心中は穏やかでなかった。
「失業中の人が来たがる場所かなぁ、バージニアって。カリフォルニアの暖かいビーチのほうが、よっぽど気が休まるんじゃない?」
「ビーチに出没する失業者?」
不安を押し隠し、わざと軽い調子で応じる。モヤモヤの正体が何であれ、どうってことのない会話にまでいちいち動揺していては身が持たない。
「残念ながら、あたしは泳がないしサーフィンもしないのよね」
「それほんと? 水泳を習ったことないの?」
「機会がなかったから」
子供の頃は泳げるようになりたくて仕方がなかった。しかし、どんなにケリーが興味を持ったものでも、それをさせてもらえたことは一度もない。彼女が何を望むかではなく、家族がケリーに対して何を望むか、それが常に優先されたからだ。
「でも残念よね」
これ以上追及されてはかなわないとばかり、ケリーは車のドアにもたれながら話題を変えた。BMWの中は十分広いはずだが、イーサンと一緒では息苦しく感じる。冷たい窓ガラスが、ほてった肌に心地よい。
「もう少し早く会社を辞めてれば、ナタリーの花嫁付添人になれたのに。それに、ほら、世紀の結婚式の準備やらなんやら、一緒にできたでしょ?」
——ウソばっかり!
本当はどんな理由をでっち上げてでも、どんな犠牲を払ってでも、結婚式に行く気なんかなかった。
式にはスターリング家も招かれており、実際バロン・スターリング本人も参列することが決まっていた。ケリーは何があってもその場に居合わせたくなかったし、自分がバロンの唯一の孫だという事実は隠しておきたかったのである。
「花嫁の付添い人はいなかったよ。必要なかったんだ。細かいところまで全て取りしきるプロ集団がついてたからね。アレックスのたっての希望だったのさ」
イーサンは、笑いながら説明した。
「ふうん、そうなんだ。それにしても、どうしてあんなに急だったの? ナタリーはどこにも逃げやしないのに」
「早く自分だけのものにしたかったんじゃない?」
「だけど、婚約したときからずっと彼のものでしょ。実際にはそれより前からだって」
今どんなに幸せか、アレックスがどれほど素晴らしい人か、ナタリーから毎日のように惚気(のろけ)話を聞かされていた。
もしもアレックスがあのまま自分の過ちに気づかなかったなら、ケリーは仕事など放り投げ、すぐさまバージニアに飛んで来て懇々と説教していたことだろう。いや、蹴り飛ばしてやっていたかもしれない。
「それはそうだね。でも、婚約と結婚はまるきり同じってわけじゃないだろ。法的拘束という意味で」
「結婚って、昔ほど永久的なものでもないんじゃない?」
あまりに多くの友人や同僚が別居や離婚に踏み切ったのを知っているだけに、つい口から出てしまった。もちろん、ナタリーにはそんなことが起こらないよう心から願っている。
「イギリスに住んでたことがある? 時々イギリス人みたいな発音してる」
「おや、いい耳をしておられる」
イーサンは品のあるクイーンズ・イングリッシュを披露した。「そうなんだ、仕事でしばらくあっちに行ってた。ところで、バージニアにはいつまでいるんだい?」
「わかんない。一週間くらいかな」
「たったそれだけ?」
彼は驚いたように言った。
「もうちょっと長くてもいいかも。今後のこと、まだ何も決めてないから。でも、当分アジアに戻るつもりはないかな」
「もし香港が飽きたんなら、東京っていう手もあるよ」
ケリーは肩をすくめて答える。
「日本語が話せないもん。それに、専属の通訳を雇うほど経験が豊富かって聞かれると、自信もないし」
車が交差点に近づき、イーサンはスピードを緩めた。
「そう? きみは誰よりも有能だって、ナタリーが言ってたよ」
「彼女が?」
なぜあそこまでがむしゃらに仕事するのか、その辺りの事情をケリーはナタリーにも打ち明けていない。キャリアを積むために必死で仕事をしていると、誰もが思い込んでいた。しかし本当は、余計なことを何も考えたくないから自分を極限まで追い詰めていたかっただけなのだ。
「それが聞けて嬉しいけど、本当のあたしは特別でも何でもないんだ。そりゃあ、仕事の上で手抜きはしないわよ。だけどそんなの、誰にだってできるでしょ?」
イーサンの巧みなハンドルさばきを横目で見つめながら、自分はなぜ遠い昔の思い出から抜け出せないのだろう、とケリーは考えていた。
彼が覚えているのはジャクリーンという名前だけ。自分は大勢の女性のうちの一人にすぎないのもわかっている。それなのに……。
目指すホテルに車を停め、イーサンは駐車係にキーを渡すため車を降りた。
彼がいなくなったと同時に車内がずいぶん広くなったような気がして、ケリーは肺に溜まった空気を思いっきり吐き出した。無意識に息を詰めていたらしい。
「大丈夫?」
助手席のドアを開けてイーサンが尋ねた。「少し顔が赤いけど」
「だ、大丈夫よ。フライトが長かったから疲れたのかな」
ケリーはどうにか取り繕って車を降りた。
スーツケースをベルボーイに任せ、イーサンにエスコートされながらロビーに向かう。大きな手が背中に添えられ、そこだけが燃えるように熱かった。
「お客様はジュニア・スイートにアップグレードされております」
フロントの係がにこやかに告げた。「他のお荷物はすでにお部屋のほうへ運び入れておきました。全部で四つでよろしかったですか」
「ええ」
「お連れ様のダニエル・ジョンソン様も本日ご到着でしょうか」
イーサンの興味深そうな視線が背後に感じられる。
「い、いいえ。予定に変更があって、来れなくなったの」
「かしこまりました」
係の女性はそう言って部屋の鍵を差し出した。「ごゆっくりおくつろぎくださいませ、ウィルソン様」
なぜジュニア・スイート? 一番安い部屋を予約したはずなのに……。
エレベーターに向かいながら、ケリーは内心で首をひねっていた。
「ナタリーが気を利かせたのさ」
「ま、まあ、そうなの。……あとでお礼言わなくちゃ」
こちらの考えていることがどうしてわかったのだろう。
「で、ダニエル・ジョンソンって誰だい?」
「あたしが元いた会社の取締役」
「へー。いつも上司と同じ部屋に泊まるんだ?」
「まっさかぁ。それに、ダンの女性への興味はあたしの天体物理学への興味と同じくらいだわよ」
イーサンは、よくわからないという顔をした。
「全く興味がない、って意味。同じ部屋に泊まることなんか、あるはずないじゃない」
「わかりにくいジョークだなぁ。きみが隠れスティーブン・ホーキンスかもしれないと思ったじゃないか」
「はっ! ニュートンの三法則さえ覚えてない物理学オンチのあたしが? ……ところで、あなたも忙しいんでしょ。送ってくれてありがと。もうここで大丈夫よ」
「ダメだよ。きみがきちんと部屋に落ち着くまで見届けないと」
「本当に平気だから」
「そういうわけにはいかないんだって」
意志の強そうな目が、自分のやりたいようにすると言っている。
ケリーは言い争うのも馬鹿馬鹿しくなった。素直に従っておけば、それだけ早く一人になれるというものだ。
エレベーターは永遠に上昇し続けるかと思われた。こんな狭い箱の中にいると、イーサンのさりげないコロンが強く香る。気がつけば、彼がこちらをじっと見て何か物思いにふけっている。
七年前ならいざ知らず、いい大人になった今でもこんなに胸がときめいてしまうのはなぜだろう。
——こら、鎮まれ、あたしの心臓!
エレベーターがチンと鳴ってドアが開いたとき、ケリーは小さく息を吐いた。
それにしても、いったいどういうつもりだろう。自分の部屋を見つけられないとでも思われているのだろうか。
頭の中で疑問符が点滅している間に、部屋の前まで来た。
「ほんと、何から何までありがと」
「どういたしまして。一応言っとくけど、ナタリーはイタリアからの帰国が遅れてるみたいなんだ。それで、僕が代わりに空港まで行ったのさ。明後日にならないと戻れないんじゃないかな」
イーサンはそう言って自分の名刺を取り出すと、裏に何か走り書きをして渡した。「僕の携帯番号も書いといた。必要なときはいつでも連絡して。それと、BMWはここに残して行くから、遠慮なく使ってくれていいよ。この辺りは車がないと何にもできないからね」
「車なんか、いくらでもレンタル——」
ケリーが言いかけると、彼が流れるようなしぐさで唇をふさいできた。決して情熱的でも強制的でもない、親愛の情を示しただけのついばむようなキス。それでも、彼女の身体中を震えさせるには十分だった。
もう少しで膝からくず折れそうになり、ドアにもたれかかる。
なぜこの自分がドギマギしなければならないのだ。
「じゃあ、またあとで」
平然と去りかけたイーサンが、ついでのように振り向いてさらりと告げる。「夕食のとき、また迎えに来るよ。そう、七時頃でいいね?」
それは質問ですらなかった。彼女が断るとは露ほども疑っていない口ぶりである。
ケリーは呆気にとられてその場に立ち尽くし、どういうことなのか必死で考えてみた。だが、何もわからない。唯一わかっているのは、この申し出は断れそうにないということだけだ。
不安と期待がない交ぜになった複雑な気持ちを持て余しつつ、立ち去る彼の後ろ姿を見つめていた。