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空白の日々

名画をこの手に スピンオフ三部作, 第1巻

エリザベス。その名を一瞬たりとも忘れたことはない。

十年前、俺たちは意気投合して一夜を共にした。ところが、楽しい日々も束の間、見事に裏切られてしまった。のぼせ上がっていたのは俺だけで、彼女は何とも思っていなかった。からかわれて騙されただけだったのだ。

大金持ちになっていつか見返してやる。俺の前にひざまずかせてみせる。

復讐心に燃えた俺は追い立てられるように仕事に没頭し、気がつけば巨万の富を築いていた。

待ってろよ、エリザベス。裏切りの代償はきっちり払ってもらうからな。

 

 

ドミニク、初恋の人。ワイルドで頼もしい、私のソウル・メイト。

でも、幸せな日々はある日突然終わりを迎えた。

私が裏切ったと勘違いした彼は怒り狂い、呪いの言葉を残して立ち去っていった。

——きみの一番大事なものを奪って、その心を引き裂いてやるから楽しみに待ってろ。

彼もビリオネア。復讐の意志が残っているなら、もういつ私の前に姿を現してもおかしくない。

いいわ、ぜひそうして。私だって決着をつけたいと思ってるんだから。そうしないと前に進めないんだから。

 

 

 

※この物語は二冊で完結します。

第一章試し読み

十年前——。

とある研究によれば、人は0コンマ2秒で恋に落ちるという。

ふん、なに寝惚けたことを。どこに根拠がある? いったい誰がそんなデマを信じるっていうんだよ。だいたい、この理論を唱えている学者本人が独身なんだろ。それほど簡単に恋に落ちることができるってんなら、なんでそいつは未だに結婚してないんだ?

担当教授にそう反論してみたいのはやまやまだが、変なところで怒りを買うのも馬鹿らしい。地雷を踏んで単位がもらえなかったら成績に響く。成績が落ちたら奨学金が打ち切りになってしまい、大学をやめなくてはならなくなる。それだけはなんとしても阻止しなければと肝に銘じ、口を閉ざしておくことにした。

 

UCLAに程近いバー。生活費を稼ぐため、俺はここで週に何日かバイトをしている。

飲みにきているカップルを見てみろ。一夜限りのアバンチュールを期待してるんじゃない限り、こいつらは元から顔見知りのはずだ。知り合って何か月か経ち、お互いに憎からず思うようになって、自然な流れでデート。出会ってすぐにイチャイチャし始めた奴らなんか一組もいないに違いない。

カウンターの上を拭くついでに、くしゃくしゃのチップに手を伸ばす。バーのオーナーは、大学生や大学院生が置いていくチップを横取りするようなケチ臭い男じゃない。

——うちにも大学生の息子がいてね。今バークレーに通ってるんだが、バイト先でよくしてもらってるって喜んでるよ。その恩返しの気持ちも込めて、きみたちが気分よく働けるようにしてやりたいんだ。

バイトの初日にオーナーから言われた言葉だ。有言実行。なにかと気を配ってくれ、ストレスもなく、この店は本当に居心地がいい。

そんなことを考えていたらドアが開き、新たな客が入ってきた。若い女の二人連れで、一人はグリーンの瞳を持ったブルネット、もう一人は黒いワンピースを身にまとった赤毛の女。特に赤毛は美人だが、ここはLA、見栄えのいい女ならそのへんにいくらでも転がってるから、目の保養にはなってもそれだけだ。食指が動くわけでもなく、ましてや0コンマ2秒で恋に落ちる、なんてのは絶対にあり得ない。

と、閉まりかけたドアをブルネットの女が押さえた。ここからだと何を言っているのか聞き取れないが、外にいる誰かに向かって呼びかけているらしい。

引っ張られるようにして入ってきたのは、髪の長い女だった。見事な金髪が後光のように光り輝いていて、緩やかにかかったウェーブが顔の周りをふんわり包んでいる。その顔を見た瞬間、脳天を撃ち抜かれたような衝撃を覚え、俺は無意識にゴクリと唾を飲んでいた。

繊細な頬骨、整った目鼻立ち、ふっくらとした唇、遠目に見てもきめ細やかで美しい肌……。さらにその体型を見てゾクゾクしてきた。細身のブラウスが豊かな胸を押し上げ、ウェストは引き締まり、タイト・スカートから覗く脚は細くしなやかで長い。

目の覚めるような美女だ。こんなに完璧な女がこの世に存在するとは想像したこともなかった。

その女と目が合った瞬間、俺の思考は文字通り停止した。呼吸することも忘れて肺に空気が充満し、映画のスローモーションを見ているように、時間がゆっくりと過ぎていく。

ああ、これが一目惚れというやつか。0コンマ2秒で恋に落ちるという説は、あながちいい加減なもんでもなかったんだな。

俺は頭のどこかでそんなことを考えていた。

 

* * *

 

「それで、イタリアへはいつ?」

バーのドアを開けながら、友だちのマルセラが訊いてきた。黒に近い茶色の髪の毛が、店内の光を浴びてキラキラと輝く。

「確か明後日よ」

マルセラのあとに続いてお店に入りかけたバネッサが代わりに答えた。今はロー・スクールの学生で、弁護士を目指して日々悪戦苦闘している、私の従姉だ。年こそ少し離れているけれど、バネッサとは昔から仲が良く、しょっちゅう一緒にいるので私の友だちとも顔見知りだ。彼女の母親はケインリスといい、それはそれは美しい女性。バネッサ本人もその遺伝子を色濃く受け継いでいて、顔だちも身体つきもよく似ている。

「あさって! きっと現地でライダーと落ち合うんでしょうねえ。いいなあ」

今にも泣きそうな声で言うマルセラだけど、泣きたいのはこっちだ。厳格な祖母に、「十八の誕生日はLAで過ごしなさい」ときつく言われ、明日の誕生日まで仕方なく留まることにした。それさえなかったら、今頃はトスカーナ行きの飛行機の中だ。

UCLAに近いこのバーに来るのは今日が初めて。マルセラが是非にと言うので半ば引きずられるようにしてきたのはいいけれど、いけないことをしているという罪悪感から、どうしても尻込みしてしまう。

「ねえ、やっぱり普通のレストランにしない?」

「なーに言ってんの。せっかく偽のIDまで用意したのに、今さら怖気づいてどうすんのよ。大丈夫。メイクもばっちり決まってるし、服装だって大人びてる。誰が見たってあなたは二十歳を過ぎた女性よ。それにね、ここのバーテンダーってすんごくイケてるの。彼が目的で来たのに、ほかの店に行ったら意味なくなるじゃない」

「マルセラ、あなたってライダー一筋なのかと思ってた」

バネッサは不思議そうな顔をしている。

私の二番目の兄は、どこからどう見てもカッコいい。女の子にモテモテで、マルセラも彼に恋心を抱いている一人だ。

「今まではね。でも、全然相手にされないんだもの、そろそろ引き際かなって思ってたのよ」

「あら、そうなの?」

「残念ながら」

私がなおもお店の前でぐずぐずしていたら、「いいから早く入ってきなさいって」と強引に手を引っ張られ、危うくつまずきかけてしまった。

「ちょっとマルセラ! そんなに乱暴にしないで。転んじゃうじゃないの」

「もたもたしてるのがいけないんでしょ」

加勢してくれるかと期待してバネッサを見たけれど、彼女は、「あなたのお友だちでしょ」と言いたげに肩をすくめただけで、特に何も言わなかった。

私はため息をこらえながら素早く店内を見渡した。

「テーブル席にしましょうよ」

「ダメよ、カウンターじゃなきゃ。目当てはバーテンダーだって言ったでしょ。聞いてなかったの?」

マルセラにそう言われてカウンターのほうを見たとき、私の中からすべての思考が消え去った。バネッサが話しかけてくるけれど、全然耳に入ってこない。

ハンサムな男性なら嫌というほど見てきた。私の兄弟たちにしろ、従兄たちにしろ、みんな恐ろしくカッコいいし、実際よくモテる。すでに充分すぎるほどの免疫があるので、どんな男の人にも外見だけでは惹かれない自信があった。でもあのバーテンダーは……。

ワイルドな容姿はもちろん、引き締まった身体も私好み。でも、他にこれといって特別な理由もないのに、なぜこんなに心を奪われるのかわからない。

視線がぶつかった瞬間、身体が長い眠りから目覚めたような気がした。まるで電気ショックを受けたかのように全身の細胞が疼き始め、心臓の鼓動が速くなり、顔がカーっと熱くなる。

単に性的魅力を感じてるだけよね?

自問してみたものの、考える前からその答えがわかっていた。

他の人とは明らかに違う。どういうわけか、そこだけスポットライトが当たっているような、鮮烈な眩しさを放っているのだ。

そういえば、前におじいちゃまが話していたっけ。

——おまえのおばあさんに初めて会ったときのことが忘れられないよ。この女性だってピンときたね。

——ふうん、どうしてそう感じたの?

——一瞬で夢中になってしまって、彼女以外のものがどうでもよくなったからだ。見るものすべてが新鮮で、空気すらも澄んできて、食べ物もより旨いと思えるようになった。今まで白黒だった世界が急に色彩で溢れたような感じ、と言ったらわかりやすいかな。とにかく、あれはみんな、彼女のお陰だ。

——おじいちゃま、恋に落ちたら誰だってそんなふうになるんじゃない? 一瞬のぼせ上がっちゃう、みたいな。

——いいや、違う。そんな刹那的なもんじゃない。お互いに魂レベルで惹かれ合ったんだから、あれは間違いなく運命の出会いだ。本物の愛だ。まあ、いわゆるソウルメイトだな。

芸術家の祖父には感覚で生きているようなところがあり、時々突拍子もないことを言う。私はどちらかといえば小さい頃から現実主義者だったから、誰かと出会った瞬間、直感が降りてくるとか、宿命の相手だとわかるとか、そんな話は全然信じられなかった。それどころか、祖父の目が真剣になればなるほど、吹き出さないようにするので精一杯だった。

でも、これだけは言える。祖母が船の事故で亡くなるまで、祖父と祖母は確かに愛し合っていたと。誰の目にも二人はお似合いだったのだと……。

バネッサに肘をつつかれ、私は現実に引き戻された。

「エリザベス、どうしたの? さっきからうわの空よ。あなたがボーッとしてる間に、マルセラったらさっさとカウンター席に座っちゃったわよ。ほら、私たちも行きましょう」

「う、ん。わかった」

私はカウンターに歩み寄り、バーテンダーの前に腰を下ろした。その間にも、ソウルメイトという言葉が頭の中でぐるぐる回り続けていた。

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