ナディア リー » Blog Archive ウェディングベルは鳴らさないで | ナディア リー

ウェディングベルは鳴らさないで

プライス家の人々, 第3巻

複雑な家庭環境で育ったバネッサ・プライス。彼女にとって、男性に寄りかかって生きていくことほど惨めな人生はない。誰にも頼らず自力で社会的地位を築いてこそ、存在意義が見出せると固く信じている。
学生時代からの腐れ縁であるジャスティンにはロー・スクール卒業を機に別れを宣言するも、熱烈なセックスが忘れられずいつの間にかよりを戻していた。それからも年に数回会う程度の、いわばセフレのような関係が密かに続いている。

財界の大物実業家ジャスティン・スターリングは、バネッサの置かれた状況を理解した上で付き合っているつもりだった。だが、些細なことから言い争いになったのがきっかけで彼女と完全に決別し、もっと自分に相応しい相手を見つけようと心に決めた。
ところがあるとき、突然シカゴへやってきたバネッサと一夜を過ごしたことから、事態は思わぬ方向へと動き始める。

第一章試し読み

プロローグ

ラスベガス——。

夜のとばりが下りるころ、ジャスティン・スターリングは最上階のスイートで愛の余韻に浸っていた。大きな窓からきらめく街が見渡せ、どこもかしこもゴージャスにライトアップされている。遠くに広がるのは黒々とした砂漠の海。
エアコンからの冷気に、腕の中のバネッサが小さく身震いしたので、ジャスティンはシーツをかけ直した。
バネッサと付き合い始めてほぼ五年。大伯父からはハーバード・ビジネス・スクールに行くよう強く勧められていたのだが、できるだけ彼女のそばにいたかったジャスティンは、大伯父の反対を押し切ってスタンフォード大学の大学院へ進んだ。
世界で類を見ないほどの大金持ちである大伯父バロン・スターリングの後継者ともなれば、本人の意思にかかわらず、どうしても注目を浴びてしまう。バネッサはプライバシーを侵されるのを嫌がり、二人の関係を隠したがった。ジャスティンのほうはというと、彼女の気が済むならどちらでも構わないので、二人はこれまで秘密の交際を続けてきたのである。
バネッサは彼の胸板に頬を押し当てて囁いた。
「私、そろそろ就職なの」
「LAでだろ?」
「うん、まあね」
ジャスティンは彼女の絹のような髪を撫でた。本当は素晴らしい黒髪をしているのだが、本人はそれが気に入らないらしく、いつも赤い色に染めている。
「僕はMBAを取得したから、当分はシカゴにいないといけない。だけどお互いにスケジュールを調整すれば、これまで通り会えるさ」
「ジャスティン」
バネッサが言いにくそうに言った。「私たち、別れたほうがいいと思うの」
髪を撫でるジャスティンの手が止まった。
「なんで?」
「遠距離恋愛がうまくいった試しはないから」
「そんなこと、やってみなくちゃわかんないだろ」
「いいえ、私にはわかる。お互いに忙しすぎて会う時間も減るし、あなたはシカゴで綺麗な女の人たちに囲まれるに決まってる。そういう人たちの誰かと恋に落ちるかもしれないでしょ」
「シカゴの女と? それはあり得ないな。僕のことよりさ、LAには俳優を目指すハンサムな男がわんさかいる。そっちのほうが気になる」
嫉妬で気が狂いそうになったジャスティンだったが、軽い調子を装った。
「私、ああいうのには興味ないの。それに、彼らが相手にするのは自分を売り込めそうな人たちだけ。弁護士なんかと付き合ったって旨みはないわ。どっかのプロデューサーや映画監督を紹介できるわけでもあるまいし」
「そうとも限らないさ。特にその弁護士が五千万ドルもの資産家だったらね」
バネッサはジャスティンの口を自分の唇でふさいだ。
「議論はやめて、朝まで楽しく過ごしましょう」
「まさか、明日の朝には別れるってこと?」
「そのつもり。だから最後の夜にいい思い出作りをしたいの」
バネッサが身体を重ねてきたので、ジャスティンは不愉快な思いを頭から締め出した。別れる決心なんて変えてみせる、と心の中で誓いながら。

* * *

数年後。

振り返ってみれば、僕たちは付き合っているとは言えないのかもしれない。仕事でサンフランシスコに来たと言ってはバネッサを呼び出し、ニューヨークで会議があるときにはわざわざ来させた。そうやって年に数回会って慌ただしくセックスするだけ。いわばセックスフレンドだ。ごくたまに短い休暇をバハマ辺りで過ごしたりもしたが、それだってホテルの部屋から一歩も出なかった。誰かに見つかると困るから、と彼女が二人で外出するのを嫌がったのだ。
あれから互いにキャリアを積み、バネッサは一人前の弁護士に、ジャスティンはバロンの後継者になるべく基礎を築き上げていた。しかし、互いの関係が完全に切れることはなかった。
バネッサの兄イアンとばったり出くわして少し飲んだあと、ジャスティンはLAの夜の街をもやもやした気分で歩いていた。先日バネッサのオフィスに立ち寄ったとき、彼女の態度がやけによそよそしかったのが心に引っかかっている。何かがあったに違いないが、少なくとも兄のイアンに思い当たるフシはなさそうだった。
しかし、実を言えばこんなところをうろついて、バネッサの不可解な行動の理由を探っているヒマなど彼にはなかった。特に今年の感謝祭は大伯父のバロンが初めてガールフレンドとその家族を自宅に招いたということもあり、後継者である自分が顔を出さないわけにはいかない。だから本来なら、今頃はヒューストンへ向かっているべきなのだ。
ふと聞き覚えのある笑い声がして、ジャスティンは後ろを振り向いた。案の定、ブリーフケースを提げバッグを肩にかけたバネッサが、ヒールの音をコツコツさせながらこちらに向かって歩いてくる。彼女は一人ではなく、隣に男がいた。親しそうに笑い合う二人の距離が必要以上に近いのを見て、ジャスティンは目を細めた。
あいつ、馴れ馴れしいな。彼女のこと絶対に狙ってる。それとももうデキているのだろうか。嫉妬の念がジャスティンを襲った。
控えめな髪型といい服装といい、あの男は弁護士だ。
視線を感じたのか、バネッサがはっと立ち止まってこちらを見た。数回まばたきを繰り返すも、すぐに見知らぬ人を見るように虚ろな表情に変わる。
無視を決め込むその態度に、ジャスティンの神経が逆撫でされた。
彼女の奥深くに入ったときのうめき声は未だに耳に残り、彼女の香りはこの鼻がまだ覚えている。その香りが嗅げるほど近くにいるあいつとはいったいどういう関係なんだ。
男がジャスティンに気づいて微笑んだ。
「やあ、スターリングさんですよね。こんなところでお目にかかれて光栄です」
ジャスティンはその鼻をへし折ってやりたいと内心で思いながら、表面ではニコニコと営業スマイルで応じた。
「どこかでお会いしましたか」
「いいえ」
男が照れたように笑った。「バネッサに会いにうちの事務所へいらしてたのをお見かけしました。私はフェリックス・ペックと申します。彼女と同じアソシエイトです」
「よろしく、ペックさん」
「どうかフェリックスと呼んでください」
ジャスティンは頷くだけにとどめた。
「急がないと遅れちゃうわよ」
バネッサがフェリックスの袖を引っ張りながら言ったので、ジャスティンは感情を抑制しつつ、
「フェリックス、悪いんだけどバネッサと少し話をさせてもらえないかな」
と尋ねた。
「いいですよ」
二人の間にさっと割って入り、バネッサをフェリックスから引き離す。彼女に睨まれているのは気づいていたが、今は構ってなどいられない。もしも二人きりでいたなら、もっと睨まれるようなことをしていただろう。
暗がりまで引っ張ってきたところで、バネッサが噛みついた。
「どうしたっていうのよ?」
「どうしたか、だって?」
ジャスティンはほとんど怒鳴っていた。「わからないのか!」
「人が何を考えてるかなんてわかるわけないでしょ、超能力者じゃあるまいし」
バネッサが腕を引き剥がそうともがいたが、ジャスティンはそうはさせなかった。
「この前の激しいセックス、あれは何だったのさ。まだひと月も経ってないんだぞ。それなのに別の男と一緒にいるなんてどういうことだよ。あんな男がきみを満足させてくれるとでも思ってるの?」
暗がりの中でさえ、彼女の頬が赤らんだのがわかった。
「意地悪言わないで。それに自分には何も非がないような顔もしないで。私と会っていないときのあなたが修道士みたいな生活をしてるとでも言いたいの? いろんな女とあちこち出歩いてるのを知ってるのよ」
「しかたないだろ。きみが一緒に行ってくれないんだから」
「ジャスティン」
バネッサは不満そうにギュッと目を閉じた。「あなたのことは好きよ。でも私にだっていろいろ事情があるの。複雑なのよ」
事情? なるほど、そういうことか。好きだけど愛してはいないということだ。だから、本当の意味で彼女を自分のものにできたという確信がいつまでたっても持てないのだ。彼女の意思を尊重して言いなりになったばかりに、ただ振り回されて、結局もてあそばれただけだった。バネッサは男を惑わすセイレーンと同じだ。
ジャスティンはゆっくりと手を離した。
「わかった」
「ありがとう」
バネッサは手をさすりながら安堵したような表情を見せた。「じゃあ、もし——」
「ずっと僕を利用してたってわけか」
「え?」
彼を見上げながら、バネッサの手がはたと止まった。
「おかしいと思ってたよ。悪いことしてるわけでもないのにコソコソコソコソ。どこに行くにもきみは必要以上に人目を警戒してたよね。カムフラージュに別々のホテルの予約までさせられて」
喉に苦いものが込み上げてきた。「手近にいた僕を、こっそりセックスする分にはちょうどいい相手だと踏んだ。でも一緒にいるのを他の人間に見られるのはイヤ。飽きたら捨て、身体が恋しくなったらまた会う。そういうことなんだろ。さっきの説明でよくわかったよ」
「何を言ってるの? 違うわ、勘違いよ」
バネッサは一歩前に踏み出し、腕を伸ばした。「ジャスティン——」
しかし、手が触れるより先に、ジャスティンは彼女から離れた。
「今さら言い訳なんか聞きたくない。僕たちはもう終わりだ」
胸がえぐられるような痛みを覚えながら、彼は最後通告をした。「僕にとってのバネッサ・プライスは、たった今死んだよ」

第一章

事務所を出てスターバックスに向かいながら、バネッサは長いため息をついた。ズキズキ痛むこめかみを押さえていると、隣を歩くフェリックスが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫? 相当参ってるみたいだよ」
今回のクライアントが有罪なのは明らかだ。しかし、どうしても彼らの無罪を、事務所をあげて勝ち取らねばならない。
「ええ、大丈夫」
バネッサはそう答えたが、実のところ全然大丈夫ではなかった。
困難な仕事を抱えているせいもあるが、もう一つ、とんでもない〝事件〟が持ち上がったからだ。午前中の法廷で証人が宣誓書を読み上げている最中、長兄のデインから一通のメールが入った。
〈父さんたちが離婚することになった〉
そっけないひと言だけでは、前後関係がまったくわからない。詳しい経緯を知りたくても、デインはこちらからの電話にもメールにもいっさい応答しなかった。
兄さんたら、肝心なときにはいつも当てにならないんだから。
「プライスさん!」
こちらに向かって少女が二人走ってくる。以前、無料弁護を引き受けたクライアントの子供たちだった。
「ごめん、ラージサイズのラテをお願いできない?」
バネッサは立ち止まり、フェリックスを見上げた。「あとで落ち合いましょう」
フェリックスはいいよ、と頷き、ゆっくりと歩み去っていった。
「こんなところで何してるの?」
バネッサは少女たちに尋ねた。「お父さんは知ってるの?」
妹のほうが得意そうに頷く。
「パパの車で来たの。ちょうどダウンタウンに用があったんですって」
少女はバネッサの脚に抱きついた。手のひらが少しベタベタしている。「パパってとっても優しいでしょ」
「そうね」
「どうしてもお会いして、ひと言お礼が言いたかったんです」
姉のスージーが大人びた口調で言った。
子供たちは当時、母親とそのボーイフレンドと一緒に住んでいたのだが、母親が麻薬に溺れているのをいいことに、ボーイフレンドは子供たちを好き勝手に虐待していた。そんな環境から彼女らを助け出すためにバネッサは奮闘し、父親と暮らしたほうが幸せになれると裁判所に訴えたのだが、その父親というのが高卒の肉体労働者で、おまけにひどく不愛想なため、裁判所を説得するのに大変な時間と労力を要したのだった。
「サリーおばちゃんから聞いたんだけど、先生がお金をもらえなかったってほんと? あたし、貯金箱をこわしてお金を持ってきたの。ほら」
妹のほうがポケットに手を突っ込んで、中から小銭入れを取り出した。
バネッサは二人の少女の頭に手を置いて言った。
「ご褒美ならたった今うけとったわ。あなたたちの幸せそうな顔を見るのが何よりの報酬よ」
そこへ、少女たちの父親が慌てたように走ってきた。
「すんません、こいつらが邪魔をして。先生は忙しくてそう簡単には会えないって言ったんですが、まったく聞く耳持たなくて」
彼は恐縮したように言った。
「いいんですよ。ちょうどコーヒーブレイクに入ったところだったので。この子たちが元気そうで私も安心しました」
バネッサが少女たちと初めて会ったとき、二人とも痩せ細り、薄汚れた身なりで、いつも何かに怯えているような表情をしていた。だが今の彼女たちは清潔な服に身を包み、健康そうで子供らしい表情だ。そして父親にまとわりついている姿は、とても微笑ましい。
「先生がいらっしゃらなかったら、こいつらどうなっていたかと思うとゾッとします。本当にありがとうございました」
父親は鼻をすすりながら深々と頭を下げた。
「すべてがうまく収まってよかったですね」
「はい。ですがこれ以上お手間をとらせては先生の迷惑になります。俺たちのように困ってる人たちを助ける大事な仕事をごまんと抱えてらっしゃるんでしょうから」
彼はそう言って娘たちに向き直った。「さあ、先生にもう一度きちんとお礼を言うんだ。そしたらアイスクリームを買いに行こうな」
わーい、と叫びながら娘たちはちょこんと頭を下げ、ありがとうございました! と元気よく声を揃えた。父親ももう一度頭を下げ、娘たちを連れて通りを横切っていった。
三人が仲良さそうに笑い合っているのを見て、心がほんのりと温かくなる。だが、すぐに頭を切り替えなくてはならない。
彼らとは真逆のクライアントを相手にすると思うと気が滅入ってくるが、正義を曲げてでも望ましい結果を出す、これが今の私に与えられた使命。
事務所に戻りかけて、バネッサは立ち止まった。車を降りる母を見かけたからだ。相変わらず優雅な服装に優雅な身のこなしで、いつもと違う様子はどこにも見られない。
「お母さん!」
彼女は母の許に駆け寄った。
ケインリスは穏やかに微笑み、あら、バネッサ、と言って娘を抱き締めた。夫に離婚されようとしている人にはどうしても見えない。かといって、兄のデインは確かに意地悪でひねくれ者だが、こんなことで人を担ぐほど悪趣味ではない。バネッサはキツネにつままれたような思いで尋ねた。
「本当なの?」
「何のお話?」
「離婚するって聞いたわ」
やはり事実であるはずがないと信じたかった。六十に差しかかろうという今ごろになって別れて、どんな得があるだろうか。何の得もない。それぐらい母も十分心得ているはずだから、離婚されないように、あるいは何らかの手をすでに打ったのではないだろうか。
少し躊躇したケインリスがやがて、本当ですよ、と答えたときには、バネッサの呼吸が一瞬止まった。
「バネッサ、あなたそれをどこで聞いたの?」
「デイン兄さんからメールが」
口の中に苦いものが広がる。「どうしてそんなことになったの? お父さんもひどいわ」
母が苦笑いをした。
「違うの。離婚を申し出たのはわたくしのほうなのよ」
今度こそ脳天を強打されたかのような衝撃がバネッサを襲った。
「そんな!? なぜなの? もし婚前契約書が——」
「この件について話したいなら、わたくしの弁護士を通してちょうだい」
ケインリスがドライに言い放った。「担当はサマンサ・ジョーンズよ。ついでに言わせてもらうなら、約束の時間に遅れそうなの」
カリフォルニア屈指の優秀な弁護士の名を聞いて、バネッサは一縷の望みがついえたのを悟った。
お母さんは本気だ。本気でプライスの名を捨てようとしている。
「でも——」
「あなた仕事中でしょ。オフィスへ戻らないといけないんじゃないの? まだ四時半ですよ」
その言葉を裏付けるかのように、バネッサの携帯が鳴り始めた。
「それじゃわたくしも急ぐから」
そう言うと、母は後ろも見ずに歩み去っていった。

* * *

顔の前で両手の指を組みながら、ジャスティンはデスクの向こう側に立つ男をじっと見つめた。四十代後半のその男は額に汗をかき口をパクパク動かしているが、ジャスティンはその言い訳をほとんど聞いていなかった。
「ご理解いただけましたでしょうか」
「残念ながら無理だな。きみが何を言おうと僕の決心は変わらない。小児病院建設の責任者はすでに別の人間に替わっている」
「しかし——」
「それどころか、もううちの社員と認めることすらできない。スターリング&ウィルソンはきみを解雇する」
建設管理者の顔に驚きの色が走った。
「なんですって!? 私をクビになんかできはしませんよ!」
ジャスティンは表情を強張らせた。もううんざりだ。
「たった今したはずだが」
「ですがバロン氏は——」
「大伯父はもう業務に携わっていない。責任者はこの僕だ」
バロンが半ば引退の形を取って数ヶ月、最初のうちこそ人々は彼を頼りにしたがったが、出社すらしなくなって久しいので、さすがに今はその状況も変わりつつある。「バロンはすでに引退している」
男は額の汗を拭った。
「ま、待ってください。確かに私はいくつか失敗を犯しました。ですがバロン氏なら、ちょっとしくじったからと言って、会社のために長年尽くしてきた私を見捨てるようなことはなさらないでしょう」
「果たしてそうかな。きみの言う〝ちょっとしたしくじり〟は、少なくとも五百万ドルの損失を我が社に与えたことになる。それを大伯父が黙って見過ごすとは思えないんだが」
「しかし! 私は今まで何百ものプロジェクトを管理してきたんです」
「許容範囲を超えない程度の損失を出しながらね。でもはっきり言って、きみが考えてるほどきみに管理能力があるとは思えないんだよ。優秀な人材ならもっと他にいくらでもいる」
「そんな!?」
「三分以内にこのビルから出ていってくれ。でなければつまみ出すことになる。どっちを選ぶかはきみ次第だ」
冷たく言い放つと、目の前の男を警備員たちに任せ、ジャスティンはデスクの上の書類に目を移した。
エセル・スターリング小児病院は大伯父のバロンが長年温めてきたプロジェクトで、彼の亡くなった妻の名にちなんで数年前に建設が始まった。本来であればとっくの昔に開業していなければならないのだが、未だに完成とは程遠い。
このところのスターリング家は、プライベートで大きな動きがあった。家出していたバロンの孫娘ケリーが、戻ってきたと思ったらすぐに結婚式を挙げただけでなく、それが縁でバロン本人の新たなロマンスも始まった。ジャスティンはジャスティンで大会社を引き継いだばかりで、山のような業務に日々追われていた。そんなときに今回の大損害が発覚したのである。
ジャスティンはデスクの上の置時計を見た。銀色の白鳥が二羽、時計を両側から囲むように向き合い、その目はダイヤモンドでできている。六年前の誕生日にこれをくれたときのバネッサの瞳も、こんなふうに輝いていた。あのときはパリにいて、バネッサのたっての希望で別々のホテルを予約させられたっけ。
彼女からの何回目かの別れ話のあと、時計を捨ててしまおうとしたのにそれができなかった。数か月前の路上での喧嘩のあとでさえ踏ん切りがつかなかった。置時計を目にするたびに、時計に罪はない、それに、ここに置いておくと何かと便利だ、と自分に言い訳もした。
そろそろ六時だ。今日は長い夜になりそうだから、何かちょっと腹に入れておこうかな。
そう思って立ち上がりかけた矢先に電子音が鳴ったので、ジャスティンは顔をしかめてポケットを探った。コール音がしているのは個人用の携帯で、番号を知っている者は限られている。そして、こっちへかかってくるのは大抵が緊急の用件なのだ。いま新たな厄介ごとを持ち込まれるのは勘弁してほしいものだが……。
しかし、画面を見て彼は警戒を解いた。電話は友人のイアンからだった。
「やあ、イア——」
『よかった、つかまって。今シカゴ?』
「そうだよ。何を焦ってるんだ?」
『バネッサのことなんだ』
ジャスティンは途端に緊張した。
「彼女がどうした?」
『オヘア空港に向かってるらしい』
僕のところへ? まさか、あり得ないな。
「ビジネスで?」
『違う。悪いんだが僕が行くまであいつを引き止めておいてもらえないかな』
なにやら事情がありそうだ。
「プライベート・ジェットを使ってるんなら、パイロットに連絡を取ってLAに引き返させればいいじゃないか」
バネッサ自身は専用の飛行機を所有していないが、兄たちの誰かが快く貸してくれたはずだ。
『いや、ユナイテッドなんだ』
イアンは便名と到着予定時刻を早口で言った。
たとえ相手が彼でも、この頼みは断るべきだ。バネッサは子供じゃないし、彼女のことを忘れるためにも今は会うべきではない。
そう思う反面、彼女がなぜシカゴに向かっているのかも気になる。もしかして謝るつもりだろうか、と心のどこかで期待してしまう。
まさか!? いつまで引きずりゃ気が済むんだ。
『どうだ。頼めるか。できるだけ早く追いつくから』
イアンの切羽詰まった声を聞いているうちに覚悟が固まった。
「わかった。でもそっちはそっちでやることがあるんじゃないのか。僕が責任もってLAに送り届けるから、彼女のことは任せてくれ。万一どうにもならないようなら、すぐに連絡する」
『そうか。そうしてもらえたら助かる。恩に着るよ』

* * *

頭痛はひどくなる一方で、バネッサは両方のこめかみをゆっくりと揉んだ。飛行中に飲むアルコールの量としては少々多すぎた気がするが、飲まずにいられない状況というものもある。
飛行機が所定の位置に止まり、客室乗務員の動きがにわかに慌ただしくなった。パーサーによる機内アナウンスが聞こえ、搭乗のお礼や出口の案内、そして最後に、皆さまにまたお会いできる日を乗務員一同心よりお待ち申し上げております、という決め台詞で締めくくられるはずだった。ところが、今日は少し様子が違う。
「停止位置微調整にお時間を頂戴しております。お急ぎのところ申し訳ありませんが、皆さま、お席のほうでしばらくお待ちくださいませ」
あちこちから不平がぶつぶつ聞こえたが、乗客はみな行儀よく席に戻っていき、バネッサも顔をしかめつつ座り直して、荷物を膝に置いた。
こんなときに……。早く飛行機を降りたい。そして……、そのあとは? アポイントなしでジャスティンに会えるような立場じゃないのに、私はこれからどうするつもりだったのだろう。
シカゴに来たのは間違いだった、と今ごろになって悔やまれる。
こうなったら折り返しLAに戻るべきだろうか。オヘアは大きな空港だから、きっとすぐに乗れる便があるだろう。たとえなくても、どこか近場のホテルに一泊して明日の早朝の便で帰ればいい。
しばらくして前方のドアが突然開き、制服姿の男が三人入ってきた。TSA(運輸保安局)かICE(移民税関捜査局)だろうと当たりをつけていると、男たちはまっすぐバネッサの前に来て立ち止まった。
「バネッサ・プライスさん?」
男たちの一人に問いかけられ、バネッサは目を丸くした。
「そうですが」
「我々と一緒に来てください」
アルコールでぼんやりしていた頭が一瞬でシャキッとした。
「どういうことでしょう?」
「我々の口からは何も言えません」
バネッサは目を怒らせた。〝言えない〟んじゃなくて〝言わない〟の間違いでしょ。言葉は正しく使いなさいよ。
男たちの顔からは表情がいっさい消されているので、彼らの真意を窺い知ることもできない。
「バッグとノートパソコンは持ってっていいのかしら」
「ええ、構いません」
バネッサは荷物を持って席を立った。そんな彼女を周りの乗客が興味津々で見守っている。
慣れないことをするからこんな目に遭うんだわ。
彼女は苛立ちと恥ずかしさから、数時間前の自分を呪った。
きっと何かの手違いだ。彼らは別の〝バネッサ・プライス〟と私を混同しているのだろう。そしてその女は逃亡者か危険人物に違いない。
男たちに取り囲まれるようにしてコンコースを歩かせられるバネッサに、行き交う人々は好奇心を隠そうともしない。いい見世物だ。
「どこまで連れて行かれるの?」
「もうしばらく辛抱してください」
「電話はかけられる?」
「はい、いつでも」
こんなときに連絡する相手は決まっている。ローゼンバウム=マクラッケン=ワグナー・アソシエイツ、米国内の名だたる法律事務所で、プライス家の顧問弁護団である。いざとなったとき彼らに任せればまず安心だ。弁護士の端くれである以上自分で対処して当然の事案だが、疲れている上に酔いが回っているような状態で、そんな気力はとてもなかった。
一行はやがて、セキュリティの列を横切ったところで立ち止まった。いよいよ電話をかけようとすると、
「着きました。我々はここで失礼いたします」
男たちの一人がそう声をかけ、全員が立ち去ろうとした。
「ちょっと待って。どういうこと? 私、どこかに連行されるんじゃないの?」
「なぜそう思われたのか不明ですが、決してそのようなことはありません。では」
そして、今度こそ彼らは立ち去っていった。
いったい何が起こっているのだろう。
「バネッサ」
茫然とする彼女に声をかける者があった。振り向くと、
「ジャスティン!?」
ロングコートを着たジャスティンが口を引き結んで立っていた。バネッサのシカゴ入りを歓迎していないのは明らかだ。
彼に会えばなんとかなると一瞬でも期待してはいけなかったのだ。お陰で私は今、自分が馬鹿みたいに思えて、腰が引けている。
こんなことならあのままLAにとどまって、どこかのバーで誰かに愚痴を聞いてもらえばよかったのだが、問題はその内容にあった。地元の人間に知られては具合が悪いのだ。
「ここで何してるの? ご家族のどなたか……」
バネッサは言いながら到着ラウンジのほうに目をやったが、すぐに首を横に振った。スターリングの人間が民間飛行機など利用するはずがない。
「きみを迎えに来た」
じゃあ、さっきの人たちはジャスティンの差し金?
バネッサは湧き上がりかけた怒りを飲み込んだ。
〝僕にとってのバネッサ・プライスはたった今死んだよ〟という最後通牒を突きつけるほど怒っていたこの人が、わざわざ私を迎えに来てくれたのだ。ここは、腹を立てていい場面ではないだろう。
「シカゴに来るなら、せめてもう少し厚着するべきだったね」
「あら」
バネッサは自分の服を見下ろした。紺のスーツにつま先の開いたスティレット・ヒールは、二月のロサンゼルスでは快適でもここシカゴではまったくの非常識だ。
「上に羽織るものとか持ってきてないの?」
彼女は唇を噛んで首を横に振った。
「急に思いついたから、荷造りなしで飛行機に飛び乗ったの」
探るような視線を送ってきたジャスティンが、自分の着ているコートを脱いで着せかけてくれた。コートはとても温かく快適で、チョコレートとジャスティンの匂いがした。その懐かしい匂いを嗅いだだけで涙腺が緩んでしまい、気がつくと口走っていた。
「両親が離婚するの」
ジャスティンの表情がさっと変わり、堅苦しさの中に優しさが垣間見えたような気がした。すると、せき止めていたいろいろな思いが一気に溢れ、涙がほとばしり出た。
しばらく泣きじゃくっていたバネッサだったが、やがて我に返って涙を拭った。
「突然ごめんなさい。そもそもシカゴに来るべきじゃなかったわね」
長く息苦しい沈黙のあと、ジャスティンがポツリと言った。
「いいんだ」
そう言って、彼はバネッサの腰に手を当てて歩き出そうとした。「とにかく車に乗ろう。こっちだ」
「車でどこに——」
「僕の家だよ、もちろん。他にどこがある?」

» 続きは本編でお楽しみください。ご注文はこちら。

"プライス家の人々"のその他の本

フェアリーテールの結末は

第1巻

もっと読む »

お抱えシェフと打ち合わせ

第2巻

もっと読む »

思い出を置き去りに

第4巻

もっと読む »

フラットシューズに慣れるまで

第5巻

もっと読む »

カフェ・マキアートを飲みながら

第6巻

もっと読む »