
ラスカー兄弟の恋模様, 第3巻
グラント・ラスカー。私が初めて恋に落ち、すべてを捧げた人。
何もかも上手くいくと信じていたのに、ある日突然、その恋は終わった。
私への心配りも豪華な贈り物も、彼の策略に過ぎなかった。それを知った日に私は彼からの連絡を断ち切った。
それから十四年、ひょんなことから優良企業への就職が決まった。高収入で、介護給付金も支給されるという。
こんなにラッキーなことはないと喜んだのもつかの間、直属の上司はなんとあのグラントだった。
昔のことを根に持っているのか、彼はどうにかして私を追い出そうと、あの手この手で嫌がらせしてくる。けれど、介護付き老人ホームに入所している祖父のことを考えれば、私がしっかり稼がないと。
最愛の祖父のため、意地でも負けるものですか。
第一章

音楽文化論の授業において、今回のレポートは二人ひと組で共同作成するように、との指示があったのは二週間ほど前。クラスの人数は五十八人だから、本来ならきれいにペアが作れるはずなのに、私にはパートナーがいない。なぜならクラスの中にずっと欠席している学生がいて、そいつのせいで奇数になったため、一人だけあぶれてしまったからだ。
その学生——グラント・ラスカーとの面識はない。
講義初日、担当のテイラー教授は学生一人ひとりに紙を配り、出席確認をするので自分の名前を記入しなさい、と言った。記載がない者は単位を認めない、とも。だからたぶん、その日だけは出席していたのだと思うけど、あいにく顔を覚えていないし、連絡先ももちろん知らない。
でも、二人ひと組と指示された以上、どうにかしてグラントとペアを作らなければならず、クラスの男の子たちをつかまえては彼の連絡先を尋ねて回った。ようやく友だちだという子と話ができ、グラントの電話番号とメール・アドレスを教えてもらうことができた。
ところが、メールにもメッセージにも返信はなく、電話しても出てくれない。仕方がないので授業が終わってから教授に相談しにいくと、教授は嫌悪感を露わにしながら、「〝タンゴとそれが現代文化に与えた影響〟についてのレポートは、必ずペアで提出するように」と念を押してきただけだった。
たぶん、彼には嫌われている。授業中、私がよく質問をするからだと思う。
この科目は上級レベルにもかかわらず、高校生が習うような通り一遍のことしか教えてもらえない。こちらとしては、音楽全般やその背景についてより深く理解したくて説明を求めているだけなのに、それが彼の目にはあたかも専門家の地位を脅かす不届きな存在として映っているのだろうか。
レポートの提出期限まであと四日。依然としてグラントからの返信も電話もない。メールの件名に〈レポート提出について〉とわざわざ入れておいたのも、彼の気を引きたいだけの追っかけだと誤解されないためだ。
たとえ落第したとしても、大金持ちのお坊ちゃんである彼は気にしないだろうけど、私は困る。奨学金を受け続けるにはGPA(成績評価の指標)3・5かそれ以上をキープしていなければならず、そのためにはレポート一つおろそかにはできないのだ。
私には両親がいない。二人とも私が小さい頃に亡くなった。頼れる祖父母ならいるけれど、成績が下がって奨学金が打ち切られたからといって、「大学を続けたいからお金を貸して」とはとても頼めない。二人にはもう充分よくしてもらっているのに、このうえ私のために年金に手を付けさせるようなことがあっては罰が当たる。だから、何があろうと良い成績を保ち続けなければならないのだ。
もう一度相談するべく、私はテイラー教授の研究室を訪ねた。ドアをノックすると、
「どうぞ」
と返事があったので、ドアを開けようとしたらギシギシと不快な音。その音に反応したのか私の顔を見たからなのかは定かでないけれど、教授は眉間にしわを寄せた。
閉めるときまた軋むとわかっていても、他の誰かに会話の内容を聞かれないためにはそうするしかない。
「何の用かな、アリーシャ」
丸い金縁の眼鏡越しに教授が問いかけてきた。歳は三十代半ばか後半ぐらい。いつも髪をきっちり分けていて、堅苦しい恰好しかしない人だ。
椅子が三つもあるのに、彼は勧めようとしてくれない。
「すみません、私の名前はアスペン。アスペン・ヒューズです」
「そうか」

その顔が心なしか、さっきより不機嫌になっている。「で? 何用だ?」
訊き方も冷たい。やっぱり嫌われている。
「レポートの件です」
「提出期限はまだ四日も先だろう?」
「はい。ですが先日も申しましたように、ペアになった相手と連絡がつかないんです。グラント・ラスカー。授業で顔を合わせたこともないし、メールやメッセージにも返信がないし、電話にも出てくれません」
「それで? 私にどうしてほしいのかね?」
無視されていると訴えてるのに、同情すらしてくれないの? 自分の授業をサボり続けている学生がいると知ってもお構いなし? なんて先生なんだろ。
「今回の課題、一人でやらせてはもらえませんか?」
教授の顔に、はっきりとした苛立ちが見て取れる。
「アスペン、この課題はペアで取り組むことに意義がある。きみはもう大学生だろう? 思い通りにいかないことがあるたびに泣きついてくるとは情けない。それよりグラントを捜し出し、課題について直接話してみるべきではないのか。効果的に共同作業できるかどうかが、成績を大きく左右するんだから」
自分の耳が信じられない。
「グラントを捜してキャンパス中を駆け回れとおっしゃるんですか」
「まあ、そうなるかな。課題の評価がFでも気にしないというなら別だが」
ひどい! なんて先生だろう。こんな人が受け持つ授業なんか捨ててしまいたいところだけれど、卒業に必要な要件のうち、社会科学と歴史学からそれぞれ三単位ずつ取得できる科目はそうそうない。それを考えると、簡単に諦めるわけにはいかないのだ。
「そうですか。よくわかりました」
踵を返し力を込めてドアを開けると、蝶番が悲鳴を上げた。こうなりゃもうヤケクソ。バタンッ。わざと大きな音を立ててドアを閉めた。
廊下を歩きながら、グラントにもう一度コンタクトを試みる。
〈私:音楽文化論で同じクラスのアスペンっていうんだけど、レポートの件でなかなか返事くれないから困ってるの。提出期限まであと四日しかないんだよ? なんとかしてもらえない?〉
少し待ってみたものの、メッセージへの返信はやはりない。念のためメール画面も開いてみたけれど、受信箱には迷惑メール以外何も届いていなかった。
もう! 頭にきた。

〈私:どういうつもり? なんで返事してこないのよ? 今回のことで単位を落とすようなことにでもなったら、あんたをボコボコにしてやる! 覚悟してなさい〉
でも、ボタンをタップする前に送信を思い留まる。
この文面のまま送りつけてやれば少しはスカッとするだろうけど、相手への効果は期待できない。ちょっと脅した程度で屈するような奴なら、最初からすんなりと連絡がついたはずだ。
こうなったら教授に言われた通り、グラント・ラスカーを捜し出すしかないだろう。教授の態度が気に入らなかったからといって彼の言葉に逆らえば、本当にFを付けられかねない。
グラントにしても、電話やメッセージではなく面と向かって「レポートの件で話し合いましょう」と言われれば、無視できないに違いない。正確な居場所を突き止めることが前提だけど。
彼の交友関係は、裕福な家庭に育った人たちばかりで形成されているらしい。噂によれば毎晩パーティ三昧で、しかも夜通し続くため、寝るのは必然的に昼間。当然授業に出席できず、単位を落としまくっていても不思議ではないのに、教授陣からはこれまで、軒並みAが与えられてきたという。尤も、みんながみんなテイラー教授のように、相手によって態度を変えるような人たちではないだろうから、真偽のほどはわからない。
これも聞いた話で、グラントのお母さんは有名な写真家、お父さんはハリウッドの敏腕プロデューサーらしい。
女の子たちは彼を追いかけ回し、男の子たちは全員彼みたいになりたがっているそうだけど、それは彼の両親のお陰に違いない。息子であるグラント自身は醜男で背が低く、碌な人間じゃなかったりして。
SNSのアプリを開き、同じ年に卒業予定の学生グループに入ってこう呼びかける。
〈今日、誰かグラント・ラスカーを見かけなかった?〉
投稿ボタンを押していくらもしないうち、ある女子学生から送られてきた写真がフィードに表示された。数人が馬に乗っているもので、その子の投稿にはこう書かれている。
〈#ポロ #イケメン〉
馬に乗っている人たち全員がタグ付けされ、グラント・ラスカーは太字での表示だ。
やった! 居場所がわかった。
私はすぐさま自分の投稿を削除し、ポロの競技場を検索した。すると、あった。キャンパスから四十分ほどの場所だ。今から向かえば、運良く彼をつかまえられるかもしれない。
学生用駐車場へと急ぎ、十年落ちのマツダ3に乗り込む。リュックを助手席に放り投げ、いざ出発だ。
ポロ競技場へ続く二車線の道路は、広大なブドウ畑をいくつも横切っている。なだらかな斜面が広がる畑は、新芽の萌黄色が美しい。そして、頭上には雲一つない青空。南カリフォルニアの今日の天気もこんな感じなんだろうな、とLAが少し恋しくなる。
ここは大都会と違って渋滞がない。競技場までの道も行き交う車はほとんどなく、思ったより早く着いた。
ヨーロッパ製のスポーツカーやセダンの高級車がずらりと並んだ駐車場。その一角にマツダを停めて車を降りる。
洗車もワックスがけもしていない車は皆無で、私のマツダだけが悪目立ちしているけれど、気にしない、気にしない。車なんてものは、ちゃんと走ればそれでいいのだ。

正面の看板にこう書かれている。
〝どなた様も、ご来場いただきありがとうございます。ナパ、ポロ&乗馬クラブへようこそ!〟
来訪者なら誰でも歓迎するような言い回しではあっても、疎外感は否めない。所詮は金持ちの溜まり場。私みたいな貧乏人はお呼びでないのだ。
だからといって、いつまでも貧困に甘んじているつもりはない。ナパ・アクィナス大学に入ったのは、社会人になる前にのんびりと自分探しをするためではなく、将来を見据えてのことだ。今の大学での学びが、社会に出てからきっと役に立つ。素晴らしい仕事に就き、懸命に働きさえすれば、快適で安定した暮らしが約束されたも同然だ。
駐車場の向こう、広大なフィールドに面して二階建ての白い建物がある。建物の両側には日除けスタンドが点在し、それらとは別に、金網のフェンス沿いに並ぶテーブルには洒落たパラソルが立てられている。備え付けの椅子に座って観戦するのに、日焼けしないよう工夫されたものだろう。
ポロが行われているのは、金網の向こう側だ。プレイヤーたちは馬に乗ってフィールドを縦横に駆け回りながら、長い棒でボールを打ち合っている。
フェンスのそばまで行ってみると、うちの大学から応援に来たらしい数人の女子学生たちが、ゴテゴテのメイクの上にサングラスを掛け、二つのテーブルに分かれて座っている。その中の一人が何か言い、どっと笑い声が起こった。とりわけ甲高い笑い声は、セイディ・ウッドウォードのものだ。私にとっては煩わしいだけの存在。
うちの大学には学生寮が何箇所かあり、新入生はそのどれかに住まなければならない決まりになっている。入学当時、セイディは私と同室になったのだけど、彼女は自分の親友ブロンテと一緒がいいと言い、部屋を交換してくれと要求してきた。でも、ブロンテに割り当てられた寮は古く、メイン・キャンパスからも離れている。水道設備が劣悪だという事実も、上級生から聞いてみんな知っている。排水管はすぐに詰まってしまい、そのたびに業者を呼ばなければならず、場合によっては長時間の断水を強いられることもあるという。
そんなところには誰だって住みたくないので断ると、セイディは機嫌を損ね、「フンッ、あんたみたいなしみったれ、お呼びじゃないの! あたしと住むのはエレガントでゴージャスなルームメイトじゃなきゃ」と悪態をついた。
「そんなに嫌なら自分がブロンテと同じ寮に入れるよう交渉すればいいじゃない」と私が言ったことで怒りは倍増。さらに、彼女のボーイフレンドが私のお尻をじっと見ていたと知ってとうとうブチ切れた。
誰があんなネアンデルタール人みたいな人を横取りしたいもんですか。でもそれを言えば火に油を注ぐ結果になるから、もう余計なことは言わないほうがいいと判断した。
サングラスを外したセイディが笑いを引っ込め、胡乱な目を向けてくる。
「あんた、ここで何してるのよ。馬小屋で馬糞をすくうバイトでもしてんの?」
彼女のジョークを聞いた他の女子学生たちが、私を見ながらクスクス笑っている。
「いいえ、人を捜しに」
グラントとはきっとお仲間だろうから、セイディなら彼がどこにいるか知っているだろう。「グラント・ラスカーに用があるのよ」
セイディの顔から余裕のようなものが消え、彼女は不安げにフィールドを一瞥した。
なるほど、彼はあの中にいるわけね。
「どんな用?」
セイディは口元を引き締めている。それはまるで、「あたしが納得できる答えでない限り、彼には会わせないわよ」と言っているかのようだ。

「あなたには関係ないでしょ?」
「なに勘違いしてんのよ。そもそも彼にはね、あんたみたいな子と話すヒマなんてないの」
「あなたって、見かけによらずお節介なのね。でも、彼ももう立派な大人なんだから、誰かに代弁してもらう必要なんてないと思うけど?」
大人なら大人らしく、ちゃんとレポート作成のペアになってくれる……わよね?
若干の不安を抱えつつもセイディに背を向け、できるだけ彼女から離れるようフェンスに沿って歩いた。
金網越しに見えるプレイヤーたちは、相変わらず棒でボールを打ち合っている。よく見れば長い柄の先がハンマーみたいになっていて、そこを器用に使いボールを前に飛ばしたり転がしたり。中でも一人、とても攻撃的なプレイヤーがいて、敵であろう二人の間を、スピードを緩めることなくすり抜けた。少しでも接触したら落馬も免れないほどの速さなのに、あんな無茶して安全性に問題はないのだろうか。
けれど、誰も止めようとはしない。筋肉質で体格が良いそのプレイヤーに、みんな遠慮しているのだろうか。
まあ、落馬しようが骨折しようが私には関係ない。ここに来たのはグラントを見つけるためであって、ポロの試合を観戦するためではないのだ。
「出ていきなさいよ! クラブのメンバー以外は立入禁止なんだからっ」
いつの間にかすぐ近くまで来ていたセイディに喚かれて、私は駐車場を指差した。
「あそこの看板には、来た人は誰でも歓迎、みたいに書いてあるけど?」
「あれは、クラブ関係者ならって条件付き。そんなこともわかんないの?」
「私をつまみ出そうとしてる? もしそうなら、その長い爪をへし折っちゃうかもよ?」
セイディはキッとした目で睨みつけてきた。彼女にとっては取るに足らない人間に、口答えされたのが気に入らないのだろう。でも私は本気だ。こんな人相手に臆さない。
ところが、その表情が突如として柔和なものに変わった。柔和というより、とろけそうなほど甘い笑顔だ。
何が彼女をそうさせているのか不審に思って辺りを見回してみると、馬に乗った男が一人、そばまで来て止まった。ユニフォームの色と、星に似た模様が馬の額にあることから、さっきの攻撃的なプレイヤーだとわかった。逆光で顔はよく見えないけれど、眉は濃く、顎は力強く張り、彫りも深そうだ。
よりフェンスに近づこうと、セイディが私を押しのける。
「痛い! 何するのよ」
でも彼女はそれが聞こえなかったかのように、馬上の男に向かって白い、白すぎる歯を見せた。
「ハーイ、グラント」

え?
私はさっと振り返る。
「あなたがグラント・ラスカー?」
「そうだけど、きみは?」
グラントは首をかしげながら、私をじっと見てくる。「どこかで会ったっけ?」
「会ったことなんてあるはずない。ここではいわば不審者。気にしなくていい人よ」
セイディは軽蔑の眼差しを向けてくるけれど、そんなのはどうということもない。
「私はアスペン・ヒューズ。あなたとは音楽文化論の授業で同じクラスなんだけど、レポートをあなたと共同で提出しないといけないの。私からのメールやメッセージ、届いてない?」
「グラント」
とセイディが遮ってくる。「今夜一緒に、サンフランシスコのガラ(パーティ)に出かけない? きっと楽しいわよぅ」
デートの約束なんかあとでもいいでしょう? 今は私の用件のほうが大事。
「知らない人からのメールやメッセージは読まないようにしてるんだ」
「ねえ、ガラ——」
「今はもう名乗ったんだから知り合いでしょ。そんなことより、レポート提出の締め切りは四日後なの。日にちがあまりないから、一緒に取り組む時間を早急に作ってほしいんだけど」
「いや」
と彼は肩をすくめた。「他にやることがある」
「レポート提出より大事なことって何なの?」
セイディが再び私の前に立とうとする。
「今夜のガラは——」
「黙って!」

次に〝ガラ〟という言葉を口にしたら、馬小屋に引っ張っていって、馬糞の山に放り投げてやる!
私はグラントに向き直った。
「どんな用事だろうと、全部キャンセルしてちょうだい」
「なんで?」
は? 今の話、ちゃんと聞いてなかったの?
「言ったでしょう? 期限に間に合うようレポートを作成しないといけないからよ。この二週間、ずっとあなたとコンタクトを取ろうと必死だった。なのに一切音沙汰なし。本当なら今頃は出来上がってるはずなのに、四日前になっても構想すら練れてないのは、ハッキリ言ってあなたのせいなんですからねっ」
彼は再び肩をすくめた。
「そんなに大事なものなら、きみ一人でやればいいだろ。な? そうしなよ。俺の名前は入れなくていいからさ」
いい気味、というセイディの得意げな声なんかこの際無視。
「それはとっくに交渉済みよ。でもテイラー教授は共同作業でなきゃ駄目だと言った。今回はチームワークができてるかどうかも評価の対象になるみたいで、できてないって判断されたらFを付けられる。そう聞いたからわざわざこうして来たんじゃないの」
「チームワークになんか興味ないね」
グラントは馬の向きを変えて駆け出した。
「ちょっと! まだ話は終わってないんだけど。……んもうっ! 最っ低」
その背中に向かって叫んでも、彼は振り返ってくれなかった。