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あなたの秘書でよかった

単行本, 第2巻

私には自分なりの人生設計があった。LAに移り住んだら仕事を探して就職し、平凡でもいいから身の丈に合った恋をして、その人と結ばれて幸せに暮らす……。

 

友だちの紹介でネイト・スターリングの秘書として働けることになり、こんなに早く仕事が見つかるなんて夢みたいと有頂天になった。物事が計画通りに進んでいくものと期待もした。ところが、仕事に慣れた数か月後を境に、あれよあれよという間に軌道を外れ始めた。

そもそもあの女性のせいだ。毛皮のビキニを着てネイトの前に現れた女性、ジョーゼットの。彼女が独身男性オークションでネイトを競り落とすなどと言わなければ、こんなことにはならなかったのに。

「上司の危機を救ってほしい。ジョーゼットではなくきみが落札してくれないか」

ネイトに頼まれて最初は断ったものの、他に候補者は誰もいないという。

彼はビリオネア。落札したあとのお金も出すと言っている以上、とても簡単な仕事に思えたし、それが秘書としての使命にも思えて最終的に承諾した。けれど、そのあとで実際にデートしなければならなくなるとは、誰も教えてくれなかった。

第一章試し読み

リビングの鳩時計が七回鳴り終わるのを待っていたかのように、携帯電話のセキュリティ・モニターとインターフォンが来客を告げた。

マリブの家にやってきたのはエヴィー。九か月前に雇い入れた秘書だ。働き始めてから現在に至るまで、遅刻や欠勤を一度もしたことがなく、真面目で仕事熱心で機転も利き、僕にとって今やなくてはならない存在となっている。

普段通り自分で鍵を開け、そのまままっすぐ二階の寝室に入ってきた彼女の身なりは、今日も完璧だ。

薄いピンクのスーツはウェストからヒップへの美しいラインを引き立たせ、後ろで緩く結ばれている金色の髪と相まって、落ち着いた雰囲気を醸し出している。赤みを抑えた口紅をつけているのにその唇がいかにも美味しそうに見えるのは、ツヤと透明感があるせいだろうか。

腰にタオルを巻いただけの僕を見ても、彼女は顔色一つ変えなかった。こんなときいつも、サファイア・ブルーの瞳は僕の鼻の辺りを見ていて、決して顎から下へは視線が下りていかない。

普通なら男として自信をなくすところかもしれないが、僕はネイト・スターリング。ハンサムな上に惚れ惚れする体格だという自負があるし、大半の女性がそんな僕に夢中になるのも知っている。

ところが、どういうわけかこのエヴィーには通じない。ちょっと前にタオルが腰から落ちたことがあるのだが、それでも全く動じなかった。見栄えのいい男に対して免疫があるのか、外見的な魅力を重視しない主義なのか、とにかく一度も称賛の目を向けられたことがないのだ。嫌われるようなことを言ったりしたりした覚えもなく、レズビアンでもなさそうなのに、いったいなぜ僕に関心を示さないのだろう。

「おはようございます」

ありきたりな挨拶だけをして、彼女はさっさとウォークイン・クローゼットに入っていった。

「おはよう」

僕はベッドの端に腰かけ、その後姿を目で追っている。本当にいい尻、何を着ても似合いそうな体型だ。

「本日はオフィスにいらっしゃる前に『スターリング・メディカル・センター』にお顔を出されることになっておりますので、少し控えめなスーツがよろしいかと存じます」

言いながら、チャコールのオーダー・メイドのスーツとシルバー・ブルーの細ネクタイ、黒のローファーを持ってクローゼットから出てくると、彼女はそれらを僕に見せた。

「うん、さすがは我が秘書。いい取り合わせだ」

彼女のセンスは素晴らしい。そうでなかったら、いくら美人でも僕の服を選ばせたりはしない。

「お褒めに与り恐縮です、ミスター・スターリング」

ミスター・スターリング。

何か月も一緒にいるのに、彼女は未だに僕を名字で呼んでいる。だから僕のほうも、彼女のことをエヴィーではなく〝ミズ・パーカー〟と呼ぶようにした。堅苦しい呼び方がいかに馬鹿げているか知ってほしかったからだが、その作戦は失敗に終わった。どうやら彼女はそう呼ばれることを面白がってさえいると見え、呼び方を改めようとはしてくれない。

確か中西部の出身だから、LAより保守的なのは間違いないが、だからといっていつまでも名字で呼び合うか? 普通。現に、他の人間のことはちゃんとファースト・ネームで呼んでいるのに、僕だけが〝ミスター〟扱いされている。

生まれながらの大金持ちであるという自分の立場をあけすけに自慢したことなど一度もなく、誰かを見下すような態度をとったこともないのに、なぜ距離を置かれるのだろう。なぜいつまでも他人行儀なんだろう。

しかし、ここまで来ると説明を求めるには遅すぎる。どんな切り出し方をしたところで間が抜けて聞こえるだろうし、「今さら何を」と変に思われるのは目に見えている。つまり、完全に時機を逸してしまったのだ。

「着替えをなさっている間、朝ご飯をご用意させていただきます」

エヴィーはそう言って、寝室を出ていった。

朝食の支度は本来彼女の仕事じゃないし、過去の秘書たちの誰もそんなことはしなかったのだが、最初の面接時、何でもいたします、と言われ、軽い気持ちでテストしてみることにした。毎朝家に来て僕の着る服をコーディネートし、朝食の準備をしてくれるなら採用すると。結果として、その条件が今でも守られているというわけだ。

僕はエヴィーが選んでくれた服を身に着けてから一階に下りた。

広いリビングの端に目隠し代わりの小さな壁があり、その向こうがキッチンになっていて、中でエヴィーがグラスに飲み物を入れている。僕に気づいて微笑み、紫がかった緑色の飲み物を差し出してきた。

「ケールとプロテインのスムージーです。お好きでしたよね?」

前に一度旨いと言って褒めて以来、しょっちゅう、というかほぼ毎日出てくる飲み物なのだが、正直言って味は最悪。小動物の糞みたいな代物だ。だが、紳士である僕は嫌な顔一つせず、嬉々としてそれを受け取って口に含む。

「うーん、ベリーも入ってるんだね」

本音をいえば、抗酸化物質を積極的に取り入れて老化やがん、生活習慣病を予防しつつ百歳まで生きながらえるより、牛肉を始め、発がん性物質を含む加工肉を好きなだけ食べて八十何歳で死んだほうがマシだ。しかし、スムージーを作るのが義務だと思わせておく限り、彼女は毎朝通ってくれる。そのうち僕を上司としてだけでなく、男としても見てくれるようになるはずだ。

だから今日も全部飲み干してやる。

ウサギのエサみたいな朝食を〝飲んで〟いる僕のそばで、エヴィーはタブレットの画面に目をやり、今日の予定を読み上げ始めた。それによると、予定されていた会議に関して相手から延期の要望があり、日時を再調整する必要が生じそうだという。

「こっちの都合を全く考えてないみたいだね」

これが二度目の変更依頼であるせいか、少し苛立った声が出た。

「時間に融通が利く立場にいらっしゃるのを、先方もご存じだからではないでしょうか」

「だとしても、ちょっとずうずうしいよ。返事はしてないんだろ?」

「はい、まだ何も」

さすがは有能な秘書。どこでいつどんな線引きをしたらいいか心得ている。

「よろしい。一度目は目を瞑ってやったけど、二度目はない。時間に融通が利こうとそうじゃなかろうと、相手には関係ないんだからね」

「おっしゃる通りです、ミスター・スターリング。ではそのように対処いたします」

〝野菜攻撃〟からようやく解放され、持ち運び用のタンブラーに入れられたコーヒーが出てきた。やっとだ。ケールやレタス、ニンジンなどの余韻をできるだけ早く消し去りたくて、僕はコーヒーを一息に半分ほど飲んだ。

タンブラーを持って、車に乗るためにいつもの場所に向かおうとすると、エヴィーに呼び止められた。

「そちらではありません」

「え、なんで?」

「本日、ミゲルはお休みです」

「ああ、そうだった」

奥さんにもうすぐ二人目が生まれるそうで、今日から一週間の休暇を与えたのをすっかり忘れていた。兄のジャスティン曰く、妊婦はこの時期とても不安になるらしい。ミゲルの奥さんの場合は幼い子供も抱えているため、夫がそばにいるほうが落ち着くだろう。

ガレージに向かう僕のあとを、エヴィーがヒールをコツコツ鳴らしながらついてくる。

ドアを開けた瞬間、ガレージの明かりが一斉に灯り、ずらりと並ぶ十台の高級車が照らし出された。どれにしようか思案しながらチラリと横を見ると、彼女は素晴らしいコレクションにため息をつく代わりに、タブレットで何かをじっと見つめていた。

なるほど、車にも興味なしか。

よし、ブガッティにしよう。赤と黒の輝くような美しさは称賛に値するし、乗り心地も素晴らしい。まあ、カスタム仕様車で千九百万ドルもしたのだから当たり前か。まだ二回しか乗ったことはなく、その二回とも一人だったから、エヴィーがこの車に乗せる最初の人物ということになる。

「さあ乗って、ミズ・パーカー」

助手席のドアを開けた僕に、彼女は目をしばたたかせてみせた。

「あ、すみません、私、自分の車で来たのに、それをすっかり言い忘れておりました」

いつもはミゲルの運転する車で僕を迎えに来て、僕の朝食が終わったらその車で一緒にオフィスに向かう。しかし、今日からミゲルがいないのなら、彼女は自分の車で来るしかなかったはずだ。そんな単純なことも忘れてしまったとは、ルーティンが崩れると動揺するタイプなのだろうか。

「そうなんだ? きみが何かを忘れるなんて珍しいな」

「ちょっと考え事をしておりまして……、申し訳ございません」

「とにかく乗って。僕が運転する」

エヴィーは少し考えてから頷いた。

「承知しました。ありがとうございます」

僕は内心ほくそ笑んだ。この見事なヨーロッパ車に一度でも乗って、その魅力に取りつかれない人間などいるだろうか。たぶんいないと思う。彼女だってきっとまた乗りたくなるに違いなく、あわよくば、ドライブ・デートに誘えばすんなりOKがもらえるかもしれない。

エヴィーが僕の前を通って車に乗り込んだとき、シトラスのシャンプーの香りがほんのり漂ってきた。あと、ラベンダーの香りも。うーん、どっちもいい香りだ。

運転席に回り込んでエンジンのスタート・ボタンを押すと、ブガッティが低く唸りを上げた。さあ、発進だ。

久々に心躍らせる僕とは対照的に、彼女はタブレットの操作に忙しく、画面を一心に見つめたり時おりタップしたりして、この超絶ラグジュアリーな欧州車の乗り心地にも無関心な様子だ。

もしやコートと同じでウーバー派か? まあいい。

道路は渋滞していた。

せっかくブガッティに乗っているのに、混雑する道では本領が発揮できない。おまけに隣に座る秘書からも、「ほとんど揺れを感じない」とか「外の騒音が全く聞こえない」とか、何のコメントも得られないではどうにも決まりが悪いじゃないか。

いったいさっきからタブレットで何をしてるんだ?

だが、その質問をいきなりぶつけるのは憚られた。勤務時間中である以上、仕事以外のことをしているはずがないとわかっているからだ。

「昨日のデートはどうだった?」

思い余ってそう尋ねてみたが、実際は大したこともせず別れたに違いない。おそらく食事をして終わり、というところだろう。情熱的な夜を過ごしたのなら、たとえば顔が上気していたり、目が輝いていたり、テンションが高めだったり、名残のようなものが何かしら感じられるものだが、彼女の表情にはどこにもそんな様子が見られない。

「まあまあでした」

まだタブレットを操作している。「お料理も美味しくて、友好的に別れました」

別れたとは、「おやすみ」と言っただけか? それとも付き合いをやめたのか?

「次のデートの約束?」

「はい?」

彼女は、「今、生理中?」とでも訊かれたかのように顔をしかめた。

「……いや、さっきからタブレットで何かやってるからさ」

「勤務中に私用メールなどいたしません。今週の予定を確認して、調整しているところです。ああ、一つご報告ですが、例のオークションに出場なさる旨、エリザベスには私のほうから連絡しておきました」

「ありがとう」

エリザベスというのは昔からの友人なのだが、彼女には多大な恩がある。病院立ち上げのとき尽力してもらっただけでなく、その後の運営にも寄付集めという形で何くれとなく世話になっている。今回、独身男性オークションに出場しようという気になったのも、彼女にできるだけ協力したかったからだ。小児がん患者とその家族のための寄付金集めを目的に開催されるというのだから、断る理由もなかった。

「それと、『エセル・スターリング小児病院』からメールが届いております。予防医学部門における新たな取り組みに関し、資金調達に協力してもらえないかという内容です」

「また? 前回集めたお金はどうなったんだろう」

粉飾決算が発覚し、激怒した大伯父バロンから事後処理を頼まれたのが数か月前。結果、五人が解雇されることになり、五人とも横領罪で起訴された。

エセルというのはバロンの亡き妻の名前で、その名を冠する病院である以上、彼としてはどんなスキャンダルも見過ごすつもりはない。それであれ以来、二か月に一度の頻度で内部監査をするようになり、不正はもう行われていないはずだ。少なくとも表面的には。

「しかるべき使われ方をしたようです。委員会から提出された数字を、監査役たちがすべて確認いたしました」

「そうか。問題はなさそうなんだね?」

「は……い」

なんとも歯切れが悪いのは、エヴィーにも思うところがあるからだろうか。

「それなら寄付額を少し増やすとするか」

前方に「スターリング・メディカル・センター」の建物が見えてきた。

この病院もスターリング基金によって造られ、運営資金自体もほとんどがそこから賄われている。とはいえ、非営利団体の組織を運営するには莫大なお金がかかるから、エリザベスを始め、あらゆる人々の協力が不可欠だ。貧困層のための病院を潰すわけにはいかないと、みな志を一つにしてくれている。

「あの、監査に関してですが、事前通知をすることで真の姿が隠されてしまう虞はないのでしょうか」

車を駐車していると、エヴィーが遠慮がちに言った。

「あるかもね」

「そうお思いになるなら、なぜ今回も日時を告知されたんですか。来月までに何らかの証拠が隠滅されるかもしれません」

「大丈夫。抜き打ちでやる、来週ね。みんなびっくりするだろうな」

エヴィーは柔らかく笑った。

その声は耳に心地よく、その顔も可愛くて、思わずキスしたくなった。しかし、どう考えても不適切だ。僕に興味を持たない女性に対して軽はずみにキスなんかしたら、セクハラだと訴えられて、滅多にいない優秀な人材を即失うことになってしまう。

ああ、この人がもっと軽い女性ならよかったのに、と思わないでもないが、もしも実際にそうだったら、彼女には惹かれなかったような気がする。もちろん寝るところまでは簡単にいっただろうがそこまでだ。飽きたらまた次の女性に乗り換え、結局居づらくなった彼女は辞めてしまうだろう。

「そろそろ参りましょうか、ミスター・スターリング」

「そうだね、ミズ・パーカー」

この病院はぱっと見モダンな建物だし、窓も大きく取ってあって光もふんだんに入ってはくるが、取り立てて豪華というほどではない。かといって決してみすぼらしくもなく、プラスティックの椅子はきちんと並び、リノリウムの床は清潔に保たれ、音量を絞ったクラシック音楽も流れている。主に貧困層が利用する施設であっても、安っぽくくたびれた感じである必要はどこにもないというコンセプトの下、患者とその家族が落ち着いて過ごせるように、あらゆる配慮がなされているのだ。

視察に訪れた僕たちと合流するため、責任者であるロビー・チェがすでに待機してくれていた。四十代前半だが、いつだってオーバーワーク気味だからか、頭はかなり白い。

「やあ、お待ちしてましたよ、理事長、エヴィー」

理事長とはいえ、病院を自分で運営管理する時間が僕のほうになくなってしまったため、今となってはもはや名ばかりだ。対外的に公表こそしていないが、立ち上げて半年ほど経った頃、業務のほとんどをロビーに引き継いだ。それ以来、実質的な運営は一任している。

「やあ、ロビー」

「おはようございます、ロビー」

エヴィーが控えめに挨拶した。

ほらな。僕以外に対してはファースト・ネームで呼んでいる。しかも、顔に笑みまで浮かべて。

「さっそくなんですが——」

「わあ! やっと来たのね!」

見知らぬ女性が両手を広げて駆け寄ってきた。とんでもなく高いヒールを履き、とんでもない恰好で髪を振り乱し、大きな胸を揺らしながら。「ずーっと待ってたのよ!」

毛皮でできたビキニ? なんだこの裸同然の身なりは?

ここ「スターリング・メディカル・センター」に精神科病棟はない。つまり、彼女は明らかに病院を間違えている。それを言おうとしたとき、細い腕が触手のように僕の身体に巻きついてきた。

「ネイト、とーっても会いたかったわあ!」

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