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彼女のハートを掴むには

単行本, 第6巻

政略結婚なんて断固拒否。でもこのままじゃいずれそうなってしまう。だからあたしは一か八かの賭けに出た。思い切って韓国を飛び出し、LAに移住することにしたのだ。

住む場所を見つけ、仕事に就き、自立できると証明しさえすれば自由になれる。友だちもたくさんいることだし、寂しさや心細さを募らせる暇もないはずだ。

ところが、事態はそう甘くなかった。思いも寄らない就職先、そこで起きたあれこれ、母の訪問、あたしの誕生日、そして……。

 

第一章試し読み

アメリカ、特にロサンゼルスにはたくさんの友人が住んでいる。その友人たちはみんな、あたしの兄は物わかりが良く、妹に対して寛大だと思っている。でも実態はそうでもない。

兄のユージーンは、頭脳明晰にして独断的。自由競争といえば聞こえはいいけど、目的達成のためなら手段を選ばない人。「ヘ・ミン・グループ」の利益を守るのが最優先で、結果として常識の枠を少々外れるようなことになったとしても、全く意に介さない。いわば策士であり、マキャベリとルシファーの申し子ではないかと疑いたくなるほどだ。

ま、友人たちが誤解しているのは、のちに〝大人のクリーム・パイ事件〟と揶揄されるようになったパーティの席で、「いざとなったら頼りがいのある兄貴」だなんて持ち上げたあたしにも責任があるんだけどね。

パーティのため日本から空輸した特別なパイの費用を、当時家出中のあたしに代わり、兄が経費として渋々ながらも全額支払ってくれた。お陰で面目は保てたのだけれど、それはそれ。今日という今日は我慢も限界だ。目にもの見せてやるんだから、と心に誓い、「ヘ・ミン・グループ」総本山の前でメルセデスを降りた。

ここはソウル。ダウンタウンの中でも超一等地に立地するこのビルは、もちろん「ヘ・ミン・グループ」所有だ。

大理石が敷き詰められた広大なロビーでヒールを響かせ歩くあたしのあとに、何人もの側近たちが続く。彼らはみんな母の回し者で、あたしの一挙手一投足をすべて報告せよと命じられているのだけれど、あたしはそれに気づかないフリを貫いている。実際、世話をしてくれる人がそばにいると便利だし、今もほら、ミズ・キムが先んじて役員専用エレベーターのボタンを押し、あたしがすぐに乗り込めるようにしてくれた。なんて楽ちんなんだろ。

父率いる巨大な複合企業に、あたし自身は全く属していない。でも、家族としての恩恵を、あらゆる面で享受している。役員用のエレベーターを使用する特権もその一つで、娘を溺愛する父が特別に許可してくれた。

エレベーターのドアが閉まり、ミズ・キムが三十九階のボタンを押した。兄のオフィスがある階だ。

ユージーン、待ってなさい、あんたのしたこと、絶対に後悔させてやるからっ。

エレベーターのドアが開いて、廊下に足を踏み出した。ミズ・キムとボディガードたちを従えて歩き、役員補佐兼秘書たちの前で立ち止まる。

四人の中でも最年長のミズ・ホンがさっと立ち上がった。いつもながら黒のスーツに身を包み、地味で没個性的な出で立ちだ。

「ミズ・ヘ、ミスター・ヘはただ今——」

彼女がそう言いかけるのを、あたしは手で制する。

「わかってる。アポがないって言いたいんでしょ。でもそんなの関係ないから」

唇を噛み締めながらも、ミズ・ホンは言い返さなかった。父があたしをどんなに甘やかしているか内部の人間は全員理解していて、ある者はあからさまに、ある者はさり気なくおべっかを使ってくる。彼女はそのどっちでもないけど、少なくとも逆らうようなマネはしない。そんなことをしたところで、あたしが聞き入れないのをわかっているからだ。

兄に宛てがわれている役員室に、ノックもしないでずかずかと入り込んでいく。そこは壁二面がガラス張りになった角部屋のため、大都会ソウルの街が一望できる。

人込みや車の渋滞は都市部ならではの光景。といっても住んでいる人間にとっては、どうってことのない日常の一コマだ。ただし、中心部を東西に流れる漢江は別物で、ゆったりした川の流れや美しく整備された公園、遠くのなだらかな丘まで見渡せ、壮観な眺めが目を楽しませてくれる。

その風景にそぐわないものがただ一つ。下着モデルが写っている巨大看板だ。ポーズを決めて白黒写真に納まっている男性の顔が、漢江を見ようとすると必ず視界に入ってくる。

ふうん、せめて女性モデルならユージーンも目の保養がてら一息つけるだろうに、残念だこと。それにしても、すごい勃起だわ。

兄は黒い革の手帳のようなものから顔を上げた。小さく顔をしかめているのは、あたしを歓迎していない証拠だ。

「ユナ、約束はしてないよな」

「家族に会うのにアポイントが必要?」

あたしは兄に向けて人差し指を突き出した。「特にその家族が、可愛い妹のショッピングを邪魔したとあっちゃ、文句の一つも言いたくなるでしょ! 出すカード出すカードが悉く『使えません』って言われて、こっちがどれだけ恥をかかされたと思ってんのよ」

「さあ……?」

「なによ、しらばっくれる気?」

「いや、そういう状況に陥ったことがないから想像もできないなって考えてただけさ。コーヒー、飲むか?」

コーヒー? 悠長にコーヒーですって?

兄を窓から突き落としてやりたいけど、ここは地上三十九階。分厚そうなガラスはちょっとやそっとの刺激じゃビクともしないだろうし、そもそも突き落とそうにも方法がわからない。あたしの力なんかじゃ、あの頑丈な身体を一ミリも動かせないだろうから。

「いらない。そんなことより、口座を凍結した理由を言いなさいよ。予告もなくそんなことするなんて、非道以外の何物でもないでしょっ」

兄はデスクを回り込み、身振りでソファを示した。

「まあ、座れよ」

ソファではなく、兄お気に入りの肘掛椅子にわざと陣取ってやる。すると、片方の眉をわずかに上げたものの、兄は無言でソファに腰かけた。

「例のレストラン、行かなかっただろ。せっかく俺がお膳立てしてやったのに」

一瞬、何のことだろうと思ったけど、そういえば候補者三二番とのマッソンがある、とミズ・キムが言っていた。でもあたしは例のごとく断った。兄はそのことで怒っているのだろうか。

マッソンとは、平たく言うとお見合いに似ていて、結婚を前提に相手と顔を合わせることだ。容姿、身長、学業成績、持っている学位の数、保有する株や不動産の明細、また当然のことながら一族全体の時価総額など、両家ともあらゆる調査を事前に済ませている。だから破談になることはまずないのだけれど、そんな形で結婚相手を決めるつもりなんてあたしにはない。

「だからクレジット・カードを使えなくしたっていうの? あり得ない。マッソンとショッピングに何の関係があるっていうのよ?」

「戒め。言ったよな、お父さんもお母さんも、年内にはおまえに結婚してもらいたがってるって。だから俺も必死なんだよ。式場やドレスの手配はミズ・ホンに頼んであるし、あとは花婿を決めるだけじゃないか。簡単だろ」

「あたしも言ったよ? 写真を見る限りタイプじゃないって。式場や花嫁衣裳を他人に決められるのもイヤ。そういうの、ちゃんと伝わってないの?」

「高学歴で」

ユージーンは指を折り曲げ始めた。「トリリンガルで、社内での立場的にも——」

「あたしたちが結婚すれば、両家の持ち株を合わせた時価総額が、少なく見積もっても十二パーセントほどアップするんだよね。はいはい、わかってるって」

〝三二番〟は大手化粧品メーカーの御曹司で、会社の中でもとりわけ重要なポストに就いている。彼と家族になれば両社は合併することになり、「ヘ・ミン・グループ」にとってのメリットは大きい。これまでどんなに画策しても参入できないでいた業界に食い込んで、いきなり幅を利かせられるようになるだけでなく、トップに躍り出ることも可能だ。しかも相乗効果で自分たちも充分に潤うとなれば、先方もこれ幸いとばかり大乗り気。トントン拍子に話が進んだらしい。

「前回の相手に決めていれば、もっと多くを見込めた。十五パーセントアップは堅かっただろうな」

なぜ兄はそこまで把握しているのか。答え:母から全部訊き出したから。

あたしなんか、どの調査書類も同じに見える。相手がお金持ちなのはもちろんのこと、高学歴で仕事もでき、結婚すれば「ヘ・ミン・グループ」に何らかの利益をもたらしてくれるだろうという点において。

「二年前に調査を開始して以来、すでに百人分の書類を渡してるそうじゃないか。その中の誰かを選ぶのがそんなに難しいことなのか?」

「うん、難しい。だって、みんな嫌なんだもん」

「そんなわけないだろ。韓国でも引く手あまたの独身男たちが厳選されてるんだから。でも残念ながら、候補者リストのうち四十四人はすでに他の相手との結婚が決まっている。お母さんの目が肥えてる証拠だよ。おまえ、ボヤボヤしてたらそのうち誰もいなくなってしまうぞ」

「望むところよ。そうなったら自分で探せるし」

憐れむような目があたしに向けられた。

「その結果どうなったか、もう忘れたのか? たかだか二億ウォン欲しさに、おまえと縁を切った奴のこと」

屈辱が蘇ってくる。

八年ほど前、好きになった人がいた。結婚も考えていた。でも、母にお金をチラつかされて、簡単にあたしを捨てた。

幸せになるために必要な学びだったのだと母に慰められたけど、当時はショックだった。でも、まったくもってその通りだと今では思う。あんなはした金になびくような男が本気であたしを好きだったはずはなく、もし結婚していたら、悲惨な将来が待っていたに違いないのだから。

けれど、だからといってユージーンにとやかく言われたくはない。

「兄さんだって苦い思いをしたことぐらいあるでしょ」

「俺のときは五億ウォンだった」

なに? どっちがより不愉快な相手に引っかかったかを競いたいの? バカみたい。

「けどお陰で理想の相手と結婚することができた」

その結婚により、両家の合計時価総額は二十パーセント増加した。兄はそれが誇らしいようだけど、あたしにとっては少しも重要じゃない。

「ふーん、そりゃよかった。で、今は幸せ?」

兄はキョトンとした。

「何だよその質問。息子も生まれたんだから当然だろ」

「そういうことが訊きたいんじゃないってば」

「は? 跡取りができる以上に幸せなことってあるか?」

「愛よ。お互いへの敬意も含めてね。ねえ、お義姉さんのこと好き?」

兄の顔にまたしても憐れみの色が浮かんだ。それが腹立たしくもあり、少し悲しくもある。「それとも、愛情なんて微塵もなくて、たとえば何かの記念日には、兄さんの代わりにミズ・ホンがプレゼントを選ぶの?」

「ミズ・ホンは並外れたセンスの持ち主だ。彼女に任せとけば間違いはない」

もちろんそうだろう。いや、彼女のことだから絶対にそれ以外の資質も持っている。でなければ、こんなに長く兄の下で働くことなどできなかったはずだ。

「パパは自分でプレゼントを買ってるよ」

「流行についていける秘書がいないんだろ」

ユージーンの減らず口にはいちいちイライラさせられる。でも、わざとはぐらかしているというのもわかっている。シカゴ大学を卒業し、その後ハーバードの経営大学院でMBAを取得するなどという快挙は、頭の回転の鈍い人間であれば成し得なかっただろう。

「そういう理由じゃないってことぐらいわかってんでしょ」

「まあね。だがそこはいま関係ない。問題は、おまえが家族としての責任を果たさずに、その恩恵だけを得ようとしている点だ」

「言い方に気をつけてよね。あたしはなにも、会社の支配権を巡って兄さんと争おうなんてこれっぽっちも思ってない。なぜかって? 兄さんのほうがずっと経営に向いてるから。だけどあたしはあたしのやり方で貢献してるつもりだよ。コンサート・ピアニストになる夢を諦めたのだってそう。一族には何のメリットもないとわかってるから、代わりに『アイビー財団』を立ち上げたんじゃない。給料だってもらってない。あたし自身がピアニストだから、埋もれようとしてる才能を発掘するのも人よりは得意だし、ぴったりの仕事だと自負してる」

「一族のために慈善事業を引き受けるのは結構だが、課せられた責任はそれだけじゃないってことを忘れるな。財団の担い手は新たに雇えても、おまえの代わりに結婚してくれる人間を雇うことはできないんだから」

ユージーンの口調がどんどん厳しくなってくる。

「愛のない結婚をしろって言うの?」

「残り五十六人のうちの誰かと恋に落ちればいいじゃないか」

「簡単そうに言わないでくれる? 兄さん、あたし、こういうので結婚を決めたくない」

兄貴そっくりな考え方の人となんか、誰が結婚するもんですか。

調査報告書に記載された内容はすべて似たり寄ったりで、どの人も高級住宅地に暮らし、高度な教育を受け、何よりも仕事を優先させるよう、小さい頃から叩き込まれてきたエリートだ。話題といえば、株式時価総額がどうだの、配当金の額はどうだっただの、お金に関することだけ。

プレゼントの類いは予め渡した資料を基に側近たちが整え、家庭サービスにしても気が向いたときに妻を夕食に連れ出す程度。家で一緒に団欒を囲む機会などほとんどありはしない。

彼らにとって妻とは、金銭的に有利な合併や買収のための手段であり、〝帝国〟の後継者を産み育てる、いわば道具のようなもの。時が来ればその子にすべてを委ねるべく、礼儀を教え、学校や塾での成績に目を光らせ、何やかやと甲斐甲斐しく世話をするのが妻の役目だ。

自分もいつかその一人になるんだと諦めたつもりでいたけれど、LAに住む友だちを見ていたら気が変わった。みんな、自分で恋を見つけ、紆余曲折がありながらも最終的に幸せになった。アイビーもトニーも相手に関する書類を見て恋に落ちたわけじゃないし、エヴィーとネイトもお互いが好きだから結婚した。キムとワイアットにしろ、ジョーとエドガーにしろ、コートとパスカルにしろ、みんなそれぞれ愛し合っている。

あたしの両親だってそうだ。父は母のために時間を取り、最低でも月に一度は外に連れ出している。母のことが大事だと、ちゃんと口に出して言っている。たまたま裕福な家庭に生まれたからといって、なぜあたしだけが窮屈な思いをしなくてはいけないのだろう。

考え込んでいた様子の兄が、フーっとため息をついた。

「ユナ、我儘言うんじゃない。御曹司や令嬢を結婚相手に選ぶのは、〝富める者〟の定めなんだよ。どうしても嫌だと言うんなら、お父さんやお母さんの言うことが聞けないなら、せめて実力を示してみろ」

実力を、示す? 何のこと? 兄さん、何をさせようっての?

「どうやって?」

「自立だよ。家族や親戚を頼らず、自分の稼ぎだけでやっていく。それが果たせたなら仕方がない、俺だって味方になってやるさ。だがもしそうならなかったら……、わかってるな?」

自立なんかどうせ不可能だ、とその目が語っている。けれど、今のが空約束でないことだけは確かだ。いろいろと不愉快なところはあっても約束だけは守る人だから、あたしが家族を頼らなくても生きていけると証明できさえすれば、必ず味方になってくれるはずだ。

あたしは余裕の笑みを見せてやった。

「そんなの簡単よ」

「言ったな。しかし行動に移す前に、今のライフスタイルを改めるのが先じゃないのか」

兄はあたしのバッグに目をやった。「それ、ミズ・ホンの月収より高そうだぞ」

「そう思うなら、もっとお給料を上げてあげれば?」

安月給で兄にこき使われるミズ・ホンを気の毒に思いながら立ち上がり、あたしはディオールの持ち手を握り締めた。「まずは仕事を見つける。自分で稼いで、ちゃんと自活できるようになれば文句ないんだね? いいよ、やってやろうじゃないの」

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