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今までも、これからも

単行本, 第3巻

ある意味気難しい上司から、一風変わった依頼をされた。賭けに負けたからワイアットのために一肌脱いでやってほしい、ついては彼の元妻の結婚式に恋人として同席してほしいというのだ。

ワイアットというのは遠い昔の〝知り合い〟で、今では宿敵。ビリオネアになったらしいけど、そんなこと私には関係ない。

彼は可愛い娘と二人、あろうことか隣の部屋に越してきた。大金持ちなら大金持ちらしくもっと広いところに住めばいいのに、なぜこんなありふれたマンションに? 適当な物件が見つからなかったのだろうか。

二度と関わり合いたくない私としては、上司の依頼といえど突っぱねたいところ。でも、そのせいで近々手に入る予定のボーナスが減額されでもしたら一大事。

別の問題が発覚したこともあり、私ではなく他の女性をワイアットに紹介することにした。何人かに会わせていればそのうち決まる。50万ドルのボーナスも晴れて満額もらえる。そう楽観視したのもつかの間、思い通りに事は運ばず、偽の恋人探しは暗礁に乗り上げてしまった。

第一章試し読み

大金さえ持っていれば何でも手に入れられると思い込んでる人たちがいるけれど、それは大いなる勘違い。どんなに欲しくても、簡単に手に入らないものもある。

私の上司、サラザール・プライスがいい例だ。

ビリオネアの彼は先月、ある彫刻が欲しいと言い出し、お金をいくら積んでも構わないから確実に買い求めるよう命じてきた。ところが、金額の交渉をしようにも肝心の作者が捕まらない。彼の名はフランソワといって、世界的に有名なアーティストであると同時に引きこもりだという噂。そのせいかどうかはわからないけど、電話にも出ず、折り返しもかかってこず、メールにもショート・メールにも返信がなく、未だに音沙汰なし。お陰で私は今日も彼に電話しなければならない、通常の実務を後回しにしてまで。

「もしもしフランソワ、たびたび申し訳ありません。こちら、キンバリー・サンフォードです。本日もサラザール・プライスの代理でご連絡しております。留守番電話にもメールにも残しましたように、あなたの手がけられた〝妻の像〟に対し、サラザールが非常に興味を持っております。当方が依頼した作品でないことは重々承知しておりますが、お譲りいただけるのならご納得のいく金額を提示してほしいと申しております。どうかお願いです。お電話お待ちいたしております」

こっちの番号を復唱して電話を切ろうとしたとき、延々と続く一方通行にうんざりした私は、普段だったら絶対口にしないような言葉を付け足した。「もし二十四時間以内にお電話くださったら、自撮りのヌード写真をお送りすることもやぶさかでない、かもしれません」

このひと言が功を奏すればいいんだけどと思いながら、私は静かに受話器を置いた。

フランソワと知り合って数年。初対面のときから、彼は顔を合わせるたびに絵のモデルになってほしいと言ってくる。インスピレーションがいつ降りてくるかにもよるけど、四週間から十週間、パリにあるアトリエでヌードになってほしいと。

——マ・シェリ(ダーリン)、想像してごらん。きみは絵の中で永遠に生き続けられるんだよ。驚異的なプロポーションと各パーツの形状、どれを取っても最高だ。本当に素晴らしい。千年経っても人々はその姿を称賛するだろうな。

フランソワがどこを見ながら褒めちぎったかというと、私の胸元だけ。他のパーツには見向きもしなかったから、たぶん彼の持つ世界観の中で、私の存在価値は胸にしかないのだ。

ハッキリ言って千年後のことなんてどうでもいい。芸術的価値がどんなに高かろうと絵の主役になるつもりは毛頭なく、フランソワのアトリエで裸のまま何週間も座り続けるなんてのもお断り。第一、芸術そのものにもさほど興味はない。

サラザールだってきっと同じだと思う。彼がアート作品を購入するのはそれらが気に入ったからではなく、芸術的価値が高いと判断したからだろう。値が吊り上がってから転売する。目的はきっとそれ。彼にとって、芸術はいわば投資の対象なのだ。

ちょっと気難しくて気性の荒いところのあるフランソワが果たして折り返し電話をくれるだろうか、電話をかけてきたとして、自撮り写真を送る気はなくなったと言えば怒り出すだろうかと危ぶみながらも、私はもう一つの大きなミッションを再開すべくパソコン作業に戻った。

妻と過ごす休暇の計画を立ててほしいとサラザールに頼まれ、すでにいくつかの案を提示したものの、どれも駄目出しされている。二週間の旅行にかかる費用がたったの十万ドルでは地味すぎると言われて。

ここはダウンタウンにある優雅なオフィス。ボスが不在なのをいいことに、私は椅子の背にもたれかかって外の景色を眺めた。不揃いな高さのビル群に邪魔をされ、せっかくの青空が堪能できないのは残念だけど。

他に何を加えれば、もっと素敵な旅になるの? 予算を三倍に増やして、休暇の期間をひと月に増やすとか? でも、そんなに長く元妻と二人だけで過ごせるもの? だいたい、別れた相手と付き合い始めるってどういうこと?

そのとき、「そりすべり」の軽快な曲が流れ始めた。一瞬どこから聞こえてくるのかと焦ったけど、すぐに電話の着信音であることに気がついた。

きっとジョーの仕業だ。こういう悪ふざけをするのは彼女しかいない。昨日のハッピーアワー(飲食店のサービスタイム)で飲んでいたときに、着信音をこっそり変えられてしまったのだ。

季節外れのクリスマス・ソングにすり替えるとはナニゴト? と若干頭に血を上らせつつも、フランソワかもしれないと思い立ち、期待が津波のように押し寄せてきた。通話ボタンを押し、ブルートゥース越しに応答する。

「キンバリー・サンフォードです」

『ルームメイトが載ってる記事、見たわよ。彼女があのネイト・スターリングと結婚しただなんて、どうして教えてくれなかったのよ』

母の声だ。母はタブロイドに目がなく、有名人のスキャンダルをすぐにキャッチする。その上で、世界に名だたる金持ちにして、スターリング家最後の独身男性と結婚したのがなぜあなたじゃなかったのか、と言外で非難しているのだ。

期待は一瞬で萎み、気が滅入ってきた。

「忙しかったの」

『あの子、LAに住み始めて一年にもならないんでしょう? もっと長くいるあなただってまだ独身なのに、先を越すとはどういう料簡かしらね。ちゃっかりしちゃってるわよ』

私は小さくため息をつきながら、作りかけの文書を保存した。母の愚痴など、片方の耳から入れてもう片方の耳からすぐに出すのが一番だ。怒りやストレスが発散できさえすれば大人しくなる。そのあと当分の間は邪魔されずに過ごせるかと思うと、こんなに楽なことはない。

『ねえキム、あなたにも旦那さんが必要よ、お金持ちのね。行き遅れる前に何とかしてちょうだい』

「またそれ?」

この会話、すでに何度繰り返されたことだろう。「だってお母さんみたいな生き方なんてできない。何度も結婚なんて」

母は今まで五回ほど結婚したけど、たぶん、どれにも愛など存在しなかったのではないだろうか。相手はどうだか知らないけど、少なくとも母が彼らのことを愛していたとは思えない。

お金持ちの男を引っかけるためには若さと美貌が不可欠で、女性の体型を崩してしまう妊娠や出産は不要、と決めつけている母は、当然子供を欲しがらなかった。それでも私が生まれたのは、単に避妊に失敗したからだ。もしも中絶してしまえば、当時の夫だった私の父から非情な女だと思われ、離婚されてしまうのではないかと怖れたのだろう。

父は父で、堕ろせなどと言おうものなら人でなしと罵られかねないと考え、喜んでいるフリをした、というのが真相なんだと思う。でも結局養育費を支払う羽目に陥ったときは、激しく後悔したことだろう。

『この子ったら、馬鹿なこと言わないで』

心外だと言わんばかりに母が言った。『私の場合は周りに〝小金持ち〟しかいなかったの。ホント、苦労したわ。なのに財産はせいぜい数百万ドルよ。だけどあなたの周りにはビリオネアがうようよいるでしょう? その中の誰かをモノにすれば、結婚は一度きりでいいんだから、ね、簡単じゃないの』

「お母さん、私をいくつだと思ってるの? 社会人一年生ってわけじゃないのよ」

お金持ちと結婚することだけが女の幸せだと思っているのはうちの母だけだ。愛のない結婚は悲しいだけだという事実を見ようともしない。「二十代半ば過ぎの女をトロフィー・ワイフにしようなんてビリオネアがどこにいるっていうの」

『確かに高校出立ての小娘ほどじゃないにしても、あなただって充分若いし綺麗よ。でもね、若さも美貌も永遠に続くわけじゃない。ボトックスである程度は若さを保てるけど、それは顔だけ。カラダは、特にオッパイは要注意よ。重力には誰も逆らえないんですもの。リフトアップは傷跡も残るっていうし、どこかが不自然に凹んだりするリスクも伴うから論外』

胸が垂れ下がってさえいなければ、年齢に関係なくビリオネアが寄ってくるとでも言いたいのだろうか。

『かといってヒアルロン酸だと効果の持続性は期待できない。続けすぎるとしこりができやすいって話もよく聞くわ』

ボトックスとかヒアルロン酸とかやめて。顔や胸に注射されると想像しただけで、こっちは身震いしてしまうんだから。

『何年もLAにいるというのに、あなたの前にだけどうしていつまでもお金持ちが現れないのかしらね。ねえ、上司なんかどうなの? 離婚したんでしょう?』

「サラザールのこと? やめてよ。彼は父親くらいの、ううん、それ以上の年齢なのよ。恋愛対象になんてなり得ない」

たとえサラザールがもっと若くて、別れた奥さんとデートしていなくても、彼とどうこうなりたいとは思わない。若さや外見ではなく、頭脳や仕事の処理能力など、彼からはもっと別のことでこれからも評価され続けたい。

『なに言ってるの。歳なんて関係ないわよ』

母は私が反論すると、いつもこんなふうに切り捨てる。『女性の地位は結婚相手の所得で決まるの。税金をいくら払ってるかで』

もう、ため息をつく気にもなれない。

「お母さん、私、自分の運命は自分で切り拓きたいの。納税額を誇るどこかの男に頼りたくなんかない」

あとひと月もすれば、働き始めて丸五年になる。今まで大きな失敗をしてこなかったから、このままいけば最初の雇用契約通り五十万ドルのボーナスが支払われるだろう。しっかり運用して増やせるだけ増やせば経済的にも余裕ができ、将来への不安もぐっと薄まるはず。母が望んでいるような生活水準には程遠くても、働き続ける限りお金に困ることはなさそうだ。

『あらまあ』

母が呆れたような声で言った。『面白いこと言うじゃない』

その割にはちっとも〝面白〟そうじゃない。

「どこが?」

『実現不可能な夢を追いかけようとしてるとこが。自分の運命は自分で切り拓く? あなた何歳よ、そんな考えにしがみついて! ちゃんと自覚を持ちなさい』

「……」

ある程度社会経験を積んだからこそ自分の理想に近づくことができているというのに、そこを認めてはくれないの?

サラザールの周りにはお金目当ての寄生虫女が腐るほどいたけど、悲しいことに最後には結局上手くいかなくなって捨てられた。

でも私は違う。彼を特別な目で見ることなく淡々と仕事をこなしてきた。一時期、サラザール自身が引退するしないで迷い、私もお役御免の憂き目に遭うかもしれなかったのだけれど、結局その話は立ち消えになり、今もこうして働いている。

『ねえ、歳の差が気になるっていうんなら、サラザールの息子たちの誰かが離婚するのを待つっていう手もあるんじゃない?』

何を言い出すことやら。考え方が違う人に対して、自分の力で運命を切り拓いていくことの大切さをどう説明すればわかってもらえるのだろう。

『ビリオネアって気まぐれだから、そういうの、よくあるでしょう? あなたが裏でちょっと細工すれば、簡単に別れるわよ。そうなれば後釜に座れる』

勘弁して。その〝息子たち〟の中には、私の大切な恩人であり友人でもあるヒラリーを奥さんにしてる人もいるっていうのに!

「誰かの家庭を壊すだなんてとんでもない。たとえ私が望んだとしても、あまりにも非現実的よ。だって、みんなとっても奥さんを愛してて、別れたいとはこれっぽっちも考えてないんだもの。それにね、万一離婚したとしても、じゃあ私が、とはならない。上司が義理の父親だなんて、やりにくくてしょうがないもの」

『あ、そう。こだわりが強いのね。だったらミルトン・ピアースか弟のバイロンは? それか、エドガー・ブラックウッド』

ああ言えばこう言うタイプの母のことだから、必ず反論してくるとは思ったけど、言うに事欠いて知り合いでもない人たちを引き合いに出してくるとは想像もしていなかった。

「お母さん、知ってるでしょう? ミルトンもバイロンも私の交友関係の中に入ってないって」

正確にはプライス家の交友関係にはいないという意味で、私自身はどんなビリオネアとも親しい間柄にはない。「それとエドガー? 彼はルイジアナに住んでるのよ? 遠距離恋愛なんて無理に決まってるじゃない。写真でしか見たことないし」

『あらあ、飛行機で通えばいいのよ。お金なら全部向こうが出してくれるわ』

「そんな簡単に言わないで」

『じゃあ、デイビッド・ダーリングは? とってもハンサムだし、いいカラダしてる。私があと四十若かったら、迷いなく彼を選ぶわね』

お母さんの好みなんてどうでもいい。息子ほど歳の違う男性なのに、よくそんな目で見られるわね。

「遠距離恋愛は無理だって言ったでしょう? 彼はバージニアに住んでるのよ」

『それがね、今はLAにいるの。〝スイート・ダーリングズ〟がLAにもオープンしたからその責任者として』

ああ、早く電話を切ってサラザールの旅程プランの続きを作成したいと思いながら、冷めてしまったコーヒーを口にした。

『会ったことのない人は嫌だっていうんなら、ワイアット・ウェストランドなんかどう? 知り合いではあるし、むしろ高校時代は仲が良かったでしょう?』

コーヒーを吹き出しかけ、もう少しで服を汚すところだった。

「ワイアット? お金持ちじゃないと駄目なんじゃなかった?」

彼の家はコーン・メドウズ(地名)のごく一般的な中流家庭で、お金が有り余っているわけじゃない。しかも、〝仲が良かった〟のはほんの一時期だけで、その後は永遠の宿敵と化した。私の処女を奪っておきながら簡単に去っていった男とは、二度と顔を合わせたくない。

『ところがびっくり。彼も今やビリオネアの仲間入りよ』

「え」

『さっき言った〝スイート・ダーリングズ〟に何かの特許を売って、何十億も儲けたらしいわ。すごいわよねえ』

お母さんったら、昔はさして関心も示さなかったくせに、お金持ちになったと聞いて俄然前のめりになってるじゃない。

「だけど、確か結婚してるはずよ」

相手は私の元親友で今は大嫌いな女、ジュネーブだ。二人はデートを重ねて結婚した。許しがたいのは結婚した事実そのものよりも、ワイアットが彼女と付き合いたいがために私を捨てたことだ。

それだけじゃない。あれは卒業間近、理科の実験中、ジュネーブがわざと足を引っかけて私を転ばせ、それを見たワイアットや他の仲間たちが寄ってたかって笑い者にした。倒れた拍子に持っていたビーカーが割れ、その縁で顎のラインを切って血を流しているにもかかわらずだ。

顔に傷跡なんかあったら貰い手がなくなると心配した母は、私に整形手術を受けさせようとした。けれどあんな町、一刻も早く逃げ出したかった私はそれを拒否した。

後ろを振り返るまい、自分で道を切り拓こう、傷跡の有無やオッパイの大きさで私という人間の価値を決めようとしない人たちに囲まれて生きていこう、そう決めたのはそのときだった。

『それがね、離婚したのよ! いま独身。リッチだし、考えてみれば完璧な相手じゃない?』

どこが? あんなクソ野郎、頼まれたって結婚なんかしない。

『なんならデートのお膳立てをしてあげましょうか?』

嫌よ! これ以上話していたら頭がおかしくなるかも。

「もしもし、もしもーし? あれ? 電波が悪いみたい。あっ、接続が切れそう」

私はブチっと電話を切った。

母と違って私には仕事があり、着実にキャリアを積んでいる。お金持ちの独身男を追いかけ回さなくても充分やっていける。

お母さんみたいにはならない、絶対に。ボーナスをもらったら、「経済力もついたことだし当分結婚は考えない」と忘れずに伝えよう。

携帯電話の着信音が新たに鳴った。今度はクリスマス・ソングじゃないから電話じゃない。ショート・メールで、送り主は……、サラザール?

〈ランチを一緒にどうだね。奢るよ。正午、〝エテルニテ〟に来るように〉

奢る? 仕事絡みじゃないってこと? これが数年前だったら、クビを言い渡されるかもしれないとビクビクするところ。なぜって、彼には良くない噂があったから。好みの女性を見つけてきては秘書に据え、適当な時期が来たら辞めさせ、そのあとで高額な〝お手当〟をチラつかせて関係を持つ。有能無能は不問で、とにかくタイプかどうかだけが重要だった。

私がその毒牙にかからずに済んだのは、仕事ぶりが認められたからではないか、秘書として手許に置いておきたいと思い、手放すのが惜しくなったからではないかと自負している。さらに、今は別れた奥さん一筋で、そんなつもりもないはず……。

なのにプライベートでランチ? しかも超高級な「エテルニテ」で? あそこは恋人とのデートや取引先の接待などに使われるお店であって、部下を連れていくような場所じゃない。誕生日とか何かの記念日とか、今日が私にとって特別な日というわけでもない。いったいどんな話があるというのだろう。

〈承知しました〉

時計を見ると、時間はあまり残されていなかった。約束の五分前に着きたければ、そろそろ会社を出たほうがよさそうだ。

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